通じ合うということー見えざる物を貴ぶ 心を養う

先日久しぶりに朝まで寝付けない日があり、気がつけば、その日には相談を受ける予定がありました。内容はうつ病になり仕事に行けなくなっているとのこと。
ふと眠れますか?問うと「昨日は一睡も眠れなかった」との答えがありました。自分が眠れなかったのはこのことだと実感しました。相談や祈願で人に会う場合は相手がそのことを強く意識しているので、祈願者や相談者の病気の場所や傷みの感じが遷ってきやすくなります。本人だけでなく家族や知人、亡くなっているご先祖のことまで伝わってきます。

感受性の高い方は良い場所や苦手な場所を感じ取ります。そして人や物にも同じように感じられる方が多いものです。そのことに気付くのは苦手な場合へ行くと何となく嫌な感じを受けることや疲れるということからはじまります。このような感受性を持っておられる方でも薄々気づいてはいるけど本人には自覚がない方が多いです。
感じることに自覚的になるとさらに敏感になり首が詰まり肩が凝る、足が重くなる、頭が重い吐き気、咳が出る、喉が渇くなどの軽い違和感を感じるようになります。そして、そのようなことが起こりえることを体験的に気付き、そのことを許容すると常に様々な気・波動に気付くようになります。人によっては過敏になり体調を壊しやすくなりますので注意が必要になってきます。※(この感受性に自分の思い込みや幻想が重なり、思い込みを現実のように感じ出す事があります。この時、現実と妄想を峻別しなくはいけないのですが、自分の心を自分で制御する危うさがあります。誰しも自然に行っていることなのでしょうが、これが上手くいかない時、心の彷徨が止めどなく続くようになるので細心の注意が必要です。)

痛みなどの辛い症状を感じだし何らかの病気に罹ったのではと感じ、例えば風邪を引いたと思い薬を飲んだり病院に行くことになることもあります。物理的に体に症状が出たならそれに対処することも必要です。漢方的な対処療法は汚気を出すと言う意味合いもありお祓いの祈願と同じく体調を取り戻すには効果的です。

良い場所や気の良い人に会うと体が楽になり、頭がスッキリして気分が良くなります。人混みや雑踏を避けて海岸や森林浴や河辺などの、自然豊かな場所に人が行くのも気の良さを感じてのことです。お祓いを受けるとスッキリして清々しく感じるのはケガレが祓われるからです。当社にお参りに来て下さる多くの方から、ここに来ると気分が良くなりスッキリすると言われます。当社は都会の中では緑豊かと言えるのかも知れませんが、残念ながら大きな森や川、海はありません。しかし、小さな森ですが自然の気に高貴な神霊の気が降りており、大袈裟に言うとこの世の至宝と思っております。

「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録3

〈兆(きざ)しを知るはそれ神か〉

予兆(兆し)とは見えない世界からの知らせ・伝達であり、神功皇后さまは「よく未然(未来)のことを知悉しておられた」と記紀にあるが、古代人が大自然から神の教えを学び取り、よく気配を察することが出来たのは神や大自然に対して謙虚だったからである。季節の訪れ(おとない)は目には見えないけれど、残暑厳しい中にもいつの間にか次第に秋が深まっている。そして、実はその中にもう、すでに確実に冬将軍が忍び寄って来ているのである。こうした、四季(季節)の移ろいの中に微妙な変化の兆しを感じ、読み取る力が私たち人間には誰にも生まれながらに備わっているものである。

 

〈二宮金次郎と秋(あき)茄子(なす)の話〉

天保の飢饉の時、国中で餓死者は数十万に達したというのに、桜町領の三カ村では金次郎さんの先見の明と適切な指示によって三千三百七六俵の備蓄があったので、それを食い、足らないところは稗で補い、一人の餓死者も出さずに済んだという話は誰もが知る有名な話である。江戸の三大飢饉といえば享保・天明・天保(四年・五年)の飢饉を指すが、天保四年(一八三三)、金次郎四七歳の時のことである。この年は関東地方のみならず、全国的に凶作の年であった。天候不順で、夏の初めから幾日も雨が降り続いた。金次郎さんは前日の残った冷や飯に水をかけて食べるといった御方であったが、ある時、宇都宮で昼食のおかずに出された茄子を食べていると、初夏だというのに、秋茄子(なす)の味がした。驚いた金次郎さんは外に飛び出して、稲や道端の草を調べてみた。すると、根は普通であったが、どの稲も草も、葉の先が衰えていた。土の中は夏であるが、地上は既に秋になっていることが分かったのである。「これは只事ではない。これからの気候を予測すると、今年は陽気が薄く、陰気が盛んなのに違いない。これでは今年は農作物が実らないであろう。すぐ準備にかからないと百姓たちは飢饉に苦しむことになるだろう」と金次郎さんは直感した。「陰陽の理」といって、陰陽のめぐり合わせから気象を判断する手法を知っていた。
「今年は作物が実らないから、凶作への準備が必要である。ただちに地下に出来るもの、すなわち、芋、大根、かぶなどの飢饉に強い野菜の種をまくように。それと同時に一町歩に二反歩ずつの割合で冷害に強い稗(ひえ)を蒔くように。そして稗が実ったら、これを必ず蓄えておくのだ。そのようにすれば、どの家にも畑一反歩の年貢を免除する」と指示し、これを村人たちに実行させたことによって、飢饉による被害を見事に回避したのであった。
一体、「転ばぬ先の杖」とか「後悔先に立たず」とはどんな教訓であるのか。人はいつも「まさか」「この位」などといった甘さが生命を失い、一家や国家を途端の危機状況に陥れるのである。「想定外」など、あろうことか。それは愚かな素人(しろうと)どもが口にするセリフである。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」というが、現代人は敵ばかりか、己のことすらも知らず、まったく傲慢の極にあり、猿以下に成り果てたのである。大自然(神)や親・先祖の御霊との関係が切れているが故に、神の手紙も読めず、迫り来る危機にも鈍感そのものであり、外の気配がまったく読めなくなってしまった。

「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録2

〈神の手紙(みこころ)を読む〉

先月(八月)二九日の午後のことであります。神前で横になっていた時、いつの間にか眠ってしまったらしく、風呂場はもとより、ありとあらゆるところの蛇口から水が激しい勢いで流れ出ており、家の中は大洪水といった有様で、その水流で押し流されそうになる、といった大変な水の恐怖に襲われました。ハッとして目覚め、未だ恐怖も冷めやらぬ中、今日、博多から新幹線で帰阪途中にある筈の某夫人に「とにかく、水に注意するように」と電話したところ、「今、姫路を通過中」であるとのことであった。そして、今月4日、5日になって、彼女はその神のご警告の意味を驚きと共に知ることになる。台風一二号による記録的な豪雨が紀伊を襲い、そのために甚大な被害を蒙ったことを、テレビのニュースで見たからであります。あの三月一一日の大震災の悪夢が再び蘇って来たかの如き感があります。水の破壊力のもの凄さ…。それはそのまま、大自然の、「神の怒り」そのものであります。今、地球上のあらゆるものが崩壊し始めました。
失意の中で立ち直れずにいた私は、未だに神が人類の罪をお許しになってはいないということを知って、愕然としました。神への深いお詫びと反省無くして、真の復興など決して有り得ないということを改めて思い知った。
今、自分がこの世にこうして生きているのは一体、誰の御蔭なのか。自分の生命を此の世に生み出し、これまで手塩にかけて育て育んで下さった大恩ある親に対してさえも、不義理ばかりして来たのである。現代日本人はその生き方の中から、「親の面倒を見る」という大切な心を失ってしまったのである。親・先祖の御霊を大切にしない者が、此の世で自分たちだけは幸せに暮らせるなどという事は断じてないということを今の人たちは知らないのだろうか。
神によって生かされ生きるこの身でありながら、「人間さま」は生命の源である聖なるもの(神や親・先祖の御霊)に対する畏敬の念を喪失し、人主義に堕してすっかり傲慢に成り果ててしまいました。どうにも救いようのない人間たち。神々は人類の愚かさに対して「これでもわからぬか」と強い警告を発し、お気付けをしておられるのだが、それさえも誰一人気づかないとは、これまた何としたことであろうか。こうした「神の知らせ」(神からの手紙)は誰にでも発送されている筈なのだが、霊性が麻痺した人間たちは一向にそれに気付かないのである。