高宮八幡宮様へ

  昨年七月、16才の長女にくだされた宣告は「卵巣ガン」でした。「中期から末期に入るところですね」と目を合わさず語る医者の口調が冷たく突き刺さりました。しかも、手術まで1ヶ月待たされると…。あまりのことにそれ以外の当事の記憶はありません。それからは気が付けば髙宮八幡宮で祈る自分がおりました。そして、奇蹟が始まりました。
 1ヶ月以上先と言われた手術が急なキャンセルが出た為、即入院翌日手術となりました。入院してみたら主治医が優しいまなざしの先生に代わり、助手の医師が娘が希望していた女性医師になっていたのです。手術が終わってみると、末期だと言われたガンがまったく転移も無く綺麗に切除できたのです。親指大であるはずの卵巣が直径17センチにもなっていたにも関わらず、もう片方の卵巣と子宮は異常がなく残せました。
 主治医の先生も「奇蹟でした」と心から喜んでくださいました。そしてさらなる奇蹟が…。心より感謝信頼している先生は16年前、大分の田舎の病院で娘本人を取り上げてくださった産婦人科の先生でした。七月九日を娘の誕生日と決めて下さった先生。娘がこの世で初めて触れた手が先生の手であり、その手が再び娘の命をこの世に留めて下さったのです。
 そのことを髙宮八幡宮の神様にご報告し御礼申し上げた時、私は初めて思いっきり泣くことが出来ました。今、長女は元気に自転車をこぎ学校に通っております。

もう一つの奇蹟

 娘の治療も順調に進み、昨年11月に神様に御礼を兼ねて家祓いのお祭りをお願いしました。お祭りが終わって宮司より「娘さんは完治されましたね。」と言われ感激し嬉しくなりました。それで、単身赴任6年目になります主人は日頃は弱音を吐かないのに、昨年1年間は心労のせいで絶えず家族の元に帰りたがっておりましたので、主人についてお尋ねしました。「ご主人は節分を過ぎるまで大変でしょう。」とおしゃいました。
 そしたらなんと、主人は節分過ぎに「福岡転勤の内定」をいただき四月から家族の元に帰れるようになりました。(実はありえない、移動なのです。)
 髙宮八幡宮の神様のお導きとお蔭に心より感謝申し上げます。

神棚を祀りました

家祓いの時に神様を祀るように勧められ、その後神棚を祀り一年が過ぎました。その間一度しか榊を替えておらず今は花が咲いております。また、神社にお参りする度に清々しく、気持ちや体が楽になるのを感じます。
 私だけでなく知人もそう申しております。そのことが御神気にふれるという事であり、御神徳のあらわれとお聞きして、この地にご縁をいただいたことに心より感謝申し上げます。

オバマ大統領就任式に

お陰様でここ数年、家族も無事に過ごさせていただいております。東京生まれ東京育ちの私ですが、正月は妻の実家で母をはじめ私たち夫婦と子供達で大晦日から髙宮八幡宮様の御奉仕をさせていただきました。年の終わりと始めに神様のお側にいるわけですから、心改まりとてもありがたいことと感謝しております。
そして、仕事ではオバマ大統領就任式の昼食会に私の会社で扱っておりますワインが二種類使われました。それ以来入荷が追いつかず、この時期に有り得ないような事で神風が吹いたようでございます。ご守護いただいていると心より実感いたしました。

神と人のあり方  8     修行    ─業・因縁を断ち切る道─

○ 修行こそ この現し世の務めなり
    他の業とては 何もなきなり
 
 「真の修行とは何ぞ」と己れに静かに問えば、それは一度「行」に入ったならば、「二度と再び生きてこの娑婆には戻らず」という非常に厳しい決死のものであると思うのである。
 たとえば本来の仏教における「出家」とは、今日のように、家や名利や豊かさや妻を求めての仏道入門ではなしに、釈迦牟尼世尊が親を捨て妻子を捨て家を捨て名利を捨て、世俗の一切を捨て去って、悲壮の決意で「悟り」の道を求めて歩まれたように、まことに厳しいものがあった。近いものと言えば、今日ではさしずめ「千日回峰行」などがそれに当たるであろうか。
 また、柔道であれ剣道であれ、いわゆる世にさまざまに在る種々の、また諸流派の「武道」というものは、それらは単に肉体の鍛錬や技の上達を目指すというだけでなく、「道」とあるからには、日々の鍛錬は、肉体的にも精神的にも、その究極をめざしての厳しい修業であるに相違なく、それは武道に限らず、伝統芸能や伝統工芸等の世界であっても然りであろう。
 つまり、広義に解釈すれば、そこに目標とする高い「志」ある限りは、人の為す事はすべて「修業」(行)でないものはない、ということになる。そして、それは一生かけても終わりのない、果てしの無い旅のようなもので、やればやるほど限りのないものであるといってよい。
 修行者が「これでよし」と思った途端に、すべてはそれでおしまいになるからだ。そして大抵はそれから堕落が始まるものである。
 この項でこれから見ていく修行というものは、一口に言えば「身魂磨き」(霊性の向上)を中心とした修行、あるいは霊魂の完成・成就をめざしての神道的・霊的修行ということになるであろう。
 さて、私たちは此の世に一体何をしに生まれてきたのだろうか。美味しい物を食べるためなのか、預金通帳のゼロの数を増やすためなのか、立派な家を建てて住むためなのか、世界旅行をするためなのか、カラオケで歌い騒ぐためなのか、ただ楽しく笑って過ごせればそれでいい…といった程度のことなのか、人それぞれというところであろう。これらはすべて、いずれはお返ししなければならない此の肉体に係わる《欲望の充足》のためでしかない。
 肉体は仮のものであり、「霊魂こそが己が本体である」と悟れば、その本体であるたましひの充足を計るべく霊魂への栄養・食べ物が必要となってくる。「教え」という《たましひ》の栄養が…。そのことに気が付いておられるからこそ、読者は本書を手にしておられるのである。この霊魂を磨く道については、次の(二)「心の浄化」や第三章の「生きることの意味」をも併せて読んで頂くとして、ここでは神霊が教えられるところの「修行」について、また主目的の「業・因縁を如何にして消すか」について見ていくことにしよう。