高宮八幡宮 由緒

由緒・由来

産土神・高宮八幡宮

髙宮八幡宮は那珂郡十七ヶ村の惣(そう)産土とされています。
(高宮、平尾、野間、若久、屋形原、野多目、和田、老司、塩原、
清水、日佐、那珂、竹下、春日、安徳、馬出、堅粕)
この惣産土とされている神社は地域ごとに存在しており、
室町時代に荘園制度が壊れていく中、
共同体を結ぶ概念として使われていました。
那珂郡十七ヶ村が産土神(土地の御神霊)のもとに
一つの命の共同体であるという意識が伺えます。
産土神は大国主の大神の御子神とされ、
その土地にあるすべての命の守護神であり、
同時にその土地の死後世界を司る神でもあります。
産土の神は生まれてくる人に自らの魂を授けてくださるので、
神と人は親子関係とされます。
また生活のすべてをご守護いただく神であり、
親神とされる所以もここにあります。

「高宮」の地名の由来

古くより高神様(位の高い神様)が降りてこられた地として、高貴な神社という意味の「高宮」と社を呼ぶようになり、のちに村名となって、現在まで高宮という地名が残っています。

神習う
人は此の世の
宝なり
人知らずとも
神これを知る

祈らずに
神の助けを
待つ者は
船に乗らずに
海渡る人

祈りなば
必ず神に
通うもの
祈りて動かぬ 
ものはなきなり

産土地区

現在の高宮浄水場に創建されており、その場所の位置と地形、つまり今の平和台に在った外賓応対の施設と大宰府との連絡道路に面して居り、更に博多湾を望み、大宰府と那珂郡を一望できる軍事上重要な位置をなしていることと時代背景を考えますと、国の外難防御祈願の為に創祀されていることが解ります。

当宮の、産土の神様としてのお働きは、左図の通り広範囲に及んでいます。当宮では皆様に参加していただける月次祭、各種講座、お祈りの指導など行っております。ぜひお参り下さい。

地理と社史

御祭神
応神天皇(誉田別命)・玉依姫命・神功皇后

【飛鳥時代~平安時代】
社史によると、斉明天皇(西暦655~661)の御代に磐瀬(現在の西鉄高宮駅東方に地名が残っている)の行宮に居られた際、神功皇后が三韓征伐にあたって必勝祈願をされた縁の地として此処に神さまをお祀りになったと伝えられております。
後、寛仁年間(1037年頃)に 岩戸少卿大蔵種直が社殿を造営して武運を祈り代々崇敬し、南蛮夷の賊並びに刀伊の賊討伐の際、神威あらたかであったとされています。
また、建久年間(1190年頃)原田氏(糸島の高祖城主)が、高宮、平尾、野間の三村の氏神、更には那珂郡の惣鎮守神として祀り、里民の崇敬を集めたとされています。

【江戸時代】
関ヶ原の役後、黒田長政公入国後は、武運祈願の神社として一の鳥居を寄進され、流鏑馬の奉納が年中行事として行われていました。
慶長7年(1602)に高宮八幡宮御祭神の御分霊(神社の祭神の神霊を他に分かち祭ること)を平尾・野間の両村に勧請しています。(現、平尾八幡宮・野間八幡宮)
当宮の寛永年間(1624年頃)の棟札によりますと、本殿は第2代藩主黒田忠之公によって寄進されております。
後年、拝殿は黒田藩家老の加藤司書によって寄進されております。

また、安産の守神としても崇敬を集めていたようで、以下のようなエピソードが残っています。

黒田藩の武士が妻の安産祈願をしたところ、玉の如き男の子を出産した。
この子が長じて17歳の時、一本の棒を持って諸剣士と試合を為し、電光石火、急所を突いて次々と相手を打ち負かした。これが黒田藩独特の杖術を始めた夢想権之助である。
夢想権之助は、黒田藩の指南役として奉仕した。

この縁で、安産祈願とともに、黒田藩の杖術、鎗術の祈願社として崇敬されていました。

天保年間(1837年頃)の棟札には、惣産子として高宮村、平尾、野間、若久、屋形原、野多目、和田、老司、塩原、清水、日佐、那珂、竹下、春日、安徳、馬出、堅粕までの17村の名前が記述されており、江戸時代のどこかの時点で黒田藩が改めて那珂郡十七ヶ村の惣(そう)産土としたようです。以下の写真が現物の棟札です。

【明治時代】
明治以降は廃藩置県により、行事等が藩主導ではなくなり、氏子(氏神地域の居住者)のプレゼンスが上がっていきます。
当宮で最も重要な祭祀である「秋季大祭」には「宮座」の奉仕があります。当時は毎年廻り当番で、氏子の家で一切の経費を負担して祭の準備をしていました。
現在でも総代会・世話人会を中心に「宮座」の奉仕は続いております。(詳細は秋季大祭・宮座をご覧下さい。)