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神霊の教え給う修行とは

○ 神がさす 行は見易し 己がする
    行は苦しき ものとこそ知れ

 「修行」といえば、私たちは直ぐに火渡りやお瀧の行、また回峰行や深山・幽窟等へのお籠り、念仏行など、さまざまな身体的難行苦行を思い浮かべがちであるが、これ等の苦行は、すべて「己れがする行」、つまり人間の「我」で行う修行法であり、神がさせる行というのは、もっとやさしく見易いものであると神霊は教えられるのである。神がさせる本来の修行と言うのは、他人が真似出来ないような身を傷付け痛める厳しい荒行、即ち我慢較べの如き「行」を言うのではなくして、心を浄め身を浄め、「神の教えを守り抜くことである」というのだ。

 ○ 修行とは 心を浄め 身を浄め
    神の教へを 守りゆくこと

   只心 心すめよと 祈れかし
    心澄むこと これが信心     (二〇)

  心澄め 心澄めとて 行をさす
   如何なる行も 是が大切    (三〇四)

  修行とは 形はおきて 心なり
   念を洗ふが まこと修行ぞ   (一九九三)

  修行とは 火や水の行は 先づおきて
   神のみ旨を 身にぞ行へ  (一二〇五)

 如何に何十年瀧行をなそうと、お遍路や回峰行を為そうと、その人の「心」というものが本当に磨かれなかったら何の価値もない。私たちの心の内なる「日々の想いを清めていく」ということほど、実は至難な行はないと言ってもよいのではないだろうか。分り易く例えていえば、「私はこれから生涯、一度たりとも嘘は付きません」とか、「私はこれから絶対に心に怒りは抱かない」、「今後一切、心に欲心は起しません」と誓い、「もしも約束を破ったその時は直ちに吾が生命を召し上げてください」と神に宇気比したとしよう。結果は死人の山が出来るのではなかろうか。神佛に「誓いを立ててそれを生涯守り通す」ことの出来る人間が此の世に果たしてどれほど居ようか。それほど現代人は日々自分勝手にものを考え、ものを言い、かつ己が御都合主義で行動しているのであり、神仏の御心には程遠い存在なのである。

 ○ 足曳きの 山をも越えむ 思ひする
    氏子よ止めよ 苦しき行を

   神がさす 修行に何の 障りある
    汚れはぬぐふ 罪打ち祓ふ   (三四二)

 神がさす 修行を何ぞ 恐れむや
    只恐ろしきは 迷ひ迷ひぞ   (三五〇)

 世間には随分と火渡りの行とか、氷点下のもとでの水行など等、下腹部に気合が入らなければ出来ない身体行があり、またそれを得意とする者?もいるけれども、それらは所詮「心磨き」の行の手助けでしかなく、手段と目的を取り違えてはならないと思うのである。その人の心というものが清らかに澄んでこなければ、修行が身についたとは到底言えないのである。
 第一段階の修行と言うと誤解を招くかもしれないが、初めから終わりまで、修行はどこまでも何処までも「心澄む修行」が何よりも大切なのであり、またこの「清浄心」こそ、神霊がもっとも嘉し給うものであると知ることが肝要である。そして次には神の教えを神習い、神の教えを守り通し、世俗の一切を超越して神と共に生きる修行(主一無敵の信仰)…ということになろう。

○ 修行とは 心を磨く ことこれじゃ
    身体の行は その手助けじゃ

   火の修行 水の修行と 世にあれど
    心の行の 手助けのため    (一四二)

   心澄む 氏子の数は 少なけれ
    神は悲しむ 神の嘆きぞ    (五二一)

   心澄む 修行が何より 大切ぢや
    利益求むる 修行はなきぞ   (五二二)
  
 ○ 心澄めば 祈りも願ひも その儘に
    神のおん手に すぐ届くなり

 (この「心の浄化」については次の項で述べているので参照されたい)。

 今の世は見えない何かが見えたり聞こえたりしてきて、そうした程度の低い憑霊者を世間が「霊能者」とか「陰陽師」とか「阿闍梨」なんぞと呼ぼうものなら、まるで自分が神か佛にでもなったかの如くにスッカリ錯覚して、信者や一般人を見下し威張り散らして、自分の思い通りに行かないことでもあると、弟子たちを家畜の如くに叱り飛ばしたり、信者から金品を脅し取ったり、騙したりする輩があまりにも多いのである。こうした輩は宗教を傘に来た人間のクズなのであり、こうした者等には決して騙され心身を穢されてはならない。         
 また、地縛霊とか未成仏霊などの甚だ低い地を這う霊どもを見るのが、何か素晴らしいことかのように勘違いする者が多いが、そういった低レペルの霊と波長の合う人間はろくな者ではなく、心の濁った不幸な人だと神霊は教えられている。この現象界に霊的存在が姿・形を現すのは「魄に魂が連なって形を現わす」のが原則で、これ等は全て人霊以下のつまらぬ霊物であることは間違いない所である。また、余談になるが、幽霊(魄霊)はまるで夢遊病者のように、何処にでも陽炎の如くに浮遊しているが、魄自身は考える力を持たず、意志がないからボサッとしており、笑ったり泣いたりもなく、人間の燃え滓の如きものであり、悪さをする訳でもない。
 私たちは心のレベル(波長)が高いからこそ、こうした低い霊物とは決して同調せず、従ってそんなつまらないものは見ないのであって、この点を勘違いしてはならない。私たちはこのようにして、神仏に知らず知らずの内にいつも守られているのだ、ということを深く感謝すべきである。

 ○ 寄り来る 低き霊魂を 見る者は
    心濁れる 不幸せの人

 己れがあたかも尊い神か佛であるかのように人を欺き、低級霊や動物霊を扱うそれ等行者が、例え如何なる術を駆使しようとも、如何なる霊能を有しようとも、彼等は一向に昔からの悪癖一つ直すことも出来ず、何ら心が磨かれたわけでもなく、邪霊の住家と化しており、穢れきった魔物たちなのだと知らねばならない。世の中には、どうしたものか、こうした悪党等に善男善女がスッカリ騙されて、身も心も捧げきる…という実に嘆かわしいことが侭あるけれども、ちょっと信じ難いことである。此の世の神・仏は何故に世俗の金銭物資や権力・地位、女性などを好まれるのか、少しでもまじめに考えたことがあるのだろうか。そんなものは神でも佛でもなく、人間がつまらぬ魔物と化しているだけなのだ(人面獣心)ということを、よくよく理解して欲しいものである。

 ○ 吾が子より 貢ぎうけぬが 親の気じゃ
    神の心も 亦この通り

 神意に則った修行というものは、自ら求めずとも、大抵はその人に必要な修行は知らず知らずにやらされているものである。それが職場であれ、家庭であれ、場所を問わず至る所において。そして、人はただそれに気付いていないだけである。
 自分が求めてしているのだと思っていることであっても、その実は神・佛のお導きによって「やらされている」ということがよくあるものである。まさに「深き計らい、後よりぞ知る」である。
 「なくて七癖」というように、誰でもどんなに少なくとも見苦しい心の癖が七つ位は必ずあるという。この「心の癖直し」が出来なかったら、例え何十年火や水の行をしようと、何にもならないということは先にも述べておいた。