神仏と先祖を祀る      見えざる物を貴ぶ 心を養う


 近頃は神社とお寺の区別がつかない方が多いです。また逆に明治の代になるまで神仏習合していたことを具体的に知らない方がほとんどです。神社の中に仏像が、お寺の中にお社が当たり前のようにあったのですから、今では想像が付かないことかも知れません。

 江戸時代は寺請制度(檀家制度)があり、仏教がいわゆる国教であり、仏教以外の葬式は出来ませんでした。お寺は大変な権力、権威があり、戸籍の管理や宗門改をしていました。ほとんどの神社もお寺の管理下に置かれていたようです。明治になり神仏分離令のもとで、寺と神社を分け、また廃寺になった寺もあったようです。その折り坊主から神主に成り変わって神社にお仕えしているところも随分とあります。行政による制度的変遷があり、現在のように神社とお寺は全く無関係のようになり、信仰としても別の物として考えるようになっています。
 当社も三十三観音をはじめ随分と仏像があったそうですが、当時の氏子さん達が粗末にならないように近くの格式高い成就院に納めています。

神道や仏教などの信仰は文化として価値観や社会のあり方に大変重要な影響があります。それで学問(宗教学・社会学等)としても国際的には重要視されているのですが、日本の教育においてはその価値が軽視されている状態があります。そして伝統文化を破壊するような異常な政教分離が教育や行政の場で執られています。
 伝統的な日本人の文化や価値観を意図的に壊すような操作がされている感じを強く受けます。来年には天皇様の譲位に伴う即位式や大嘗祭が行われますが、昭和天皇様の折にも法の解釈などを盾に、伝統をつぶし、皇室の弱体化を通して日本を落とし入れようとする気配が感じられました。
 このような事態を招いたのは、日本人が古代より持ち続けてきた素朴ながら深く清浄な感性、そこから培われた日本人の生き方と価値観。それを壊すように、見えざる物は存在しないという考えを、幼い時から教育の場ですり込まれて、気がつけば見えざる物は存在しないと無意識に思い込まされていたからです。つまり私どもは無意識の内に、見えざる物は存在せず無価値の物としているわけです。そして、日本人は戦後教育を通して神仏と先祖に対する畏敬の念を失ってしまいました。その裏表として、人そのもの、命そのもの、自然そのものに素直に畏敬することをなくしてしまいました。
 一昔前までは日本人は自然(神)にも物にも心があるとして接していましたし、行動しておりました。自然や物 を粗末にすると自然から怒られる、見放される(恩恵を受けれなくなる)、報復を受けるなどと考えていました。同じように物にも心が在るとしたり、物に心を込めたり出来るとして、何事に対しても心を込めて真心で対応することが、人として大事なこととされていました。
 この見えざる物を貴ぶ感性(日本の霊性)そのお蔭で、日本人は勤勉で真面目であり、人の目がなくても手抜など行わず、人に知られずとも自分の真心からなる行いは神や仏やご先祖が知っておられるとしていました。そして世界で一番民度の高い国でした。

 昨今は見えざる物は認めな風潮が強く、その為神仏や先祖、そして人の気持ち、心や想い、そして生命や生命そのものの価値を認めない心情となり、その価値(日本の霊性)を認めない社会が出現しつつあると思えてなりません。
 家には神棚があり仏壇がありご先祖を祀る位牌などがあり、そしてそこにはお供え物や榊やお花などもある。見えざる物を貴び祈るという行い無しには、日本人の高い霊性は取り戻せません。道義心が強く、優しく思いやりの在る人柄の良い安心で安全な国はなくなってしまいます。
 私どもは神仏先祖を祀り、取り戻すことが必要です。神様、佛様(ご本尊)、先祖(祖霊・ホトケ)毎に祀り方があり、対応の仕方があるものです。それを正しく行うことで、家庭も社会も秩序がもたらされ、平安な暮らしが出来るとしてきました。
 そして、日本人は生き方の鏡として両陛下のお姿と大御心に触れるのです。

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