「鏡」真澄鏡 直日鏡 

「鏡」真澄鏡 直日鏡

日本の古典とされる歴史書は四鏡といわれる『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』が知られています。その鏡とつけられた真意とはは歴史によって今を正しく映す(知る)為と聞いたことがあります。
師匠は自分を映す鏡に喩えられることがあります。師によって己の本質に気付かされます。そして自分自身を見つめ直して誤りに気がつくことが出来るようになります。自分自身で自分の心の奥底に気付く尺度を頂いた師とは、生死を超えて魂の繋がりがあるように思えます。師が亡くなった後も事ある毎に師の言葉や行い、後ろ姿とも言われる生き様、その謦咳に触れた思い出と共に自分を導いてくれる思いがします。
修行中は思いもよらぬ事ですが、時が過ぎ気がついてみれば師は自分を映し出す鏡として生死を超えて導いてくれる有り難い存在であります。それでこそ三年かけて師を探せという言葉が重く思い出されてなりません。

「指南」

○師匠とは ②

「指南」
指南とは南を指す車を作って、道に迷わないよう一定の方向を指し示していたところから、人に方向や進路を教え導く指導する意味となったと言われております。
人が物事を始める時、どのような動機なのかが大切であり、それがその人なりの志としてあらわれるものです。師匠とは自分の目標でもあります。師匠によってその志を定めてさらに高め維持できるように、知らない内に導かれて行きます。それは言葉で伝えると言うよりも師の生き方、業績から自然と知らない内に受け取るものです。師と同じ目標や志をもつて居れば、同行の先達として生き方のお手本として最も効果的な影響を受け取れるはずです。

「針が曲がれば糸が曲がる」
志が変われば自ずから到着点が変わってきます。人の事は何となく解るものですが、自分のこととなると気づかないものです。その意味において師匠を持つことは教えを頂くことと、自ら師匠と重ね合わせることなどが出来、その後においても一生自らを見つめ直す、鏡を頂くことになり本当に有り難いことこの上ないことです。
それで師に付いたことのない人は世代を超えた長い経験の積み重ねがもたらす成果を共有出来ないことが大きなネックになるようです。

〈指導を受ければ初心者でも解るようなことを知らなかったり、誤解していたり。その誤解から始まってすべてをあらぬ方向に持って行き、取り返しのつかないことになっていることがあったりします。特に霊學や密教的な体験が重視されるところでは口伝を聞かないと大変危険ですから…〉
そんな方を見て師曰く、「熱心に間違ってありますね!」とおっしゃっていました。そんなことにならないように互いに気をつけたいものです。そのぶん規制概念はないので自由な発想はあるようです。

「先人の行履(あんり)を尋ねる」
尊敬する人の行動行状を学んで理解を深め、その生き方を追体験して思想信条を学ぶことです。人から習って一生懸命になると知らない内に指導者の口調や仕草などの行動様式や考え方などが似てくるものです。学ぶとは真似る事から始まるのですから、当然何らか似てくるものです。
さらに精神的なものを追ってる場合は次に言葉にならない、もしくは言葉にしづらい領域の精神性を自ずから感受していくようになります。言わずもなが、以心伝心などと言われ、杓甁(しゃくびょう)=柄杓から瓶に液体を移すように、一つ一つ丁寧に思想や体験を通じて永年受け継がれてきた共通の認識が伝えられていきいます。行住坐臥=四威儀の日常生活すべてが修行であると仏教でも言いますが、心と心、魂と魂が直接触れ合う境界ではあらゆる事が教えとして象徴として意味をもたらしています。
師と弟子が同じ事を分かち合う同行者となる瞬間に大切な意味(秘伝・儀式の意味、本質・悟りの要諦)は伝えられていきます。道を求める時目の前の師匠でなく、過去の偉人であったり、亡くなった先達であっても同じ事です。

神道 日本人の生きる道(八)ー質疑応答編ー

神道  日本人の生きる道    (八)

ー 質疑応答編 ー

◎ 金神様という神様は怖いと聞きますが、そのような神様は本当にいらっしゃる のでしょうか?

☆ 川手文次郎さん(後の金光大神=金光教教祖)は金神の回座する方位を犯して家屋を普請したとして、金神の激しい怒りに触れ、金神の祟り<金神七殺>に打ちのめされ、大事な家畜までもが命を取られたというお人なのですが、その実意丁寧さが金神に認められ、厚い信頼を寄せられ、下葉の氏子から遂には金光大神にまで出世されたお方です。そして、 川手文次郎さんの御蔭により、それ以来、金神の祟りは無くなったと言われております。

神霊と言っても、正神と邪神の別があります。正神は人間たちの余程の無礼や不敬の無い限りは、決して「人間が畏れる」ような、恐ろしい神という御存在ではありません。また、ご神霊は大した用もないのに、自ら人間に近寄って色々と干渉してくる…等ということは決してありませんが、妖魅や邪霊というものは向こうの方から人間に近付いて来て、つまらぬことを思わせ、色々と不思議を見せたりして干渉するにいたるものです。     (渡辺)

◎ 霊現象(人影やラップ音など)が最近引っ越した家で起きています。霊視などをして お祓いしてくれる神社は無いでしょうか?

☆ その土地の産土神(氏神)社にお願いして祓って戴ければ、そうした霊現象は祓える筈です。
「そうしたことが起る」というのは、一家に正しい信仰が無いために起こります。引っ越しをする場合には、お世話になって来た先住所の土地の神さまにこれまでの御守護の感謝を申し上げ、引っ越しに至った事情を御報告申し上げることが、まず、第一に大切となります。

次には新住所地の産土神様に引っ越しして来た訳を話し、よくよく神にお願いすると共に、家屋の清め祓いをお願いすることである。そして人間や家具が引っ越す前に必ず、「神棚や仏壇を先に入れる」ことが大事です。神仏やご先祖様がたに先きに入っていただくのですヨ。こうしたことは常識中の常識なのですが、現代人はこうした大切な ことがまったく分かっていません。
さて、霊視などしなくとも、神への真心と強固な信念をもった、心の清らかな神職が御祭神に祈り、祓い戸四柱の神の昇・降神儀礼をして大麻と塩湯で祓えば必ずや祓われるものです。
それよりも大切なことは、これまでの生き方の誤りを深く反省して、人間生存の意義についてシッカリ考え直してみることが大切です。「人としての踏み行うべき道」を正しく歩んでいて、おかしな出来事には遭わないものなのです。
要は、自分たちがいつも神に生かされ生きているのだという真実に目覚め、忠・孝・敬神・崇祖の人たるの道さえ踏んでいけば何の心配も無き人生を送ることになるということです。    (渡辺)

◎毎週土曜日ぐらいに憑霊される。(?)除霊してくれる神社や寺を教えて欲しい。テナントビルで、オーナーが引っ越しの際1階にあったお地蔵様を お祓いして取り除いたらしい。それからの話とのこと。

☆ お地蔵さまがあったということは、そこに死者の御霊様が存在した ということです。お祓いしたら解決するなどということはありません。御霊さまは救い上げなくてはならないのです(慰霊・供養が大切)。しかし、なにも畏 ( おそ ) れず、真心をもってそのお地蔵様にお茶湯やミカンの一個なりともおあげして、定期的にお線香をあげて、 自分が知っているお念仏やお題目をお上げするなどしてこちらの誠意を示せば、そうした変な障りなどといったものはきれいに無くなります。
なにごとにも「強い信念」と誠意(まごころ)ある祭祀(お尽くし)こそが神霊にも死者の御霊(みたま)にも通じる道であるということを知って戴きたいものです。私たちは常日頃から「生きる」ということの真の意味をシッカリと考えながら、これからの人生を誤りのない、豊かなものにして行く ことが大切でしょう。            (渡辺)

◎ 祖先の霊魂様が、日々のご供養、お祀りを喜んでいるのか不満に思っているのかが分かれば、より良いご供養ができると思いますが、霊感のない私たちにも分かる祖先からのサインはあるのでしょうか?。それとも、そのような事は気にせずお祈りを続ければいいのでしょうか?。
☆ お知らせ等はあります。御先祖様の喜びの念は必ず、慰霊・供養する者の心に映って来て、こころがウキウキしたり、なによりも安心感・安堵感というものが心に生まれてきます。また、何ら嬉しいということもないのに、 涙が次から次に溢れ出てくることが良くあるものです。
霊感というものは誰にも有るものです。ただし、世間によく言う「霊感のある人」などといった人はほとんどが邪霊の憑依に よるものであり、普通の人は産土神さまに守られておりますから、「あそこに幽霊が立って居る」などといった病的な、地をはうような低い憑依霊による霊感などは無いと思いますし、また、その方が人間として正常なのです。 (渡辺)

◎ 先祖が早く浄化し、より高い所に行けるようにするために、心掛ける点、もしくはお祈りの方法があればお教えください。

☆ 親・先祖さまの慰霊・供養というものは、先ず第一に大切なことは自分たちの生命の源である「親・先祖さま」をいつも心から想うということ、心から感謝するということが大切に なって来ます。
次には、私たちが常々心正しく、清らかな生き方を心がけるということです。

親先祖と子孫とは切っても切れない絆で結ばれており、丁度 「コインの裏表」のようなものですから、まずもって自分たちが日々の生き方を正し、人間としての正しい生き方にシッカリ目覚めることが必要です。自分たちの清めもなにもしないでおいて、「お行・先祖供養」などといってあせりまわっても、それはまったく本末転倒した行いです。

「己れの清め」無くして、「先祖の清め」などは決して無いものと知るべきです。これはとても大切な点です。要は「人はどう生きるべきか」といった「人間生存の意義」を、シッカリと学ぶことが大切です。人は誰しも「生かされて、生きている者」なのですから、その生命の源に対する畏敬と感謝の念を片時も忘れない生き方というものが大切なのです。分かって戴けましたでしょうか?     (渡辺)