ウブスナにふれる2


魂の原点という神の御元に返ることを、日本では皇室をはじめ地域毎の土地の神々の元で行ってきたのです。「和の国、大和国」日本とは御神霊の魂から来る働きの中にある和御魂によって、人々は善良で穏やかで争わず助け合って世の中を創っていく使命を自ずと持つことわりを表現していると思っております。これを命持ちと言い、神様にそして人にも御名にミコトとあるのはその者が神であり、神の使命を持っていることを表しているのです。
人はすべての者がこの神のミコト持ちであり、神の神聖とその使命を持つと言うのが、日本人の考え方です。それで差別の少ない平等な国を保ってきたのです。

日本は明治から西洋文化を追従し、文明開化を謳い富国強兵したお蔭で植民地にはされませんでした。そして、戦後は占領政策によって日本本来の思想文化を教育をはじめ社会制度の中で変容させられてきました。そして学校教育では日本文化について学ぶことは絶えてありません。社会科で習うと言う方も居られるかも知れません。習ったとしてもほんの概観だけです。本質は何も分からずじまいで、家庭教育で伝えなければどこの国の人か何人か分からない者になってしまします。それを宇宙人といてるようですが、それでは日本がやがて無くなってしまいます。

只今、御世代わりの時ですから、御神霊の働きが強くなるときであります。御神霊は人の祈りを受けその働きを強めるとは古来からの伝承です。
個人ご家庭の幸福はもちろんのこと、地域国家の安全平和を祈り、少しでも幸せにそして人として立派にならせて戴きましょう。
神国日本と言われることわりそのままに、より素晴らしい日本の将来を迎える為に、家庭でのお祈りをはじめ神社に出向いてのお祈りを皆様にお願いし致します。また、神社と言わず神仏ご先祖が私たちとは異なる世界に居られ見えないとは言え、天体の運行と同じく片時も休まず活き活きと活動されていることを常に思って戴ければ祈りは必ず通じるものです。

ウブスナにふれる


ウブスナとは産土神のことです。ウブスナとは人が知らずとも関わっている神であり命の元、命を命たらしめている神聖な存在。この世に見える姿としては、その多くが土地の神や氏神と言われる神社の御祭神として祀られています。

日本の昔ながらの考え方(生き方・世界観)は随神=カンナガラ、古道とも古神道とも言われています。それは古代日本人がウブスナと関わりながら生きていくところから形作られてきました。日本人の生き方はウブスナとの関わりそのものなのです。ウブスナとは母なる大地であり、人の命の大元であり、命そのものと言ってよいほど、人とウブスナの神は深く結びついています。日本人は人は神様と親子関係であるとして、命の元を畏敬する生き方を続けてきました。私ども人類は「神の御末」つまり人は神様由来の生き物であるとしながら、暮らし神々に畏敬を持ってきました。

私どもを生かしている自然環境や食べ物となる動植物も人と共に神様由来の物であるとしています。そのようにして日本人の感性は自然と共生する日本人の生き方を創り上げてきました。
それで自然を畏敬すること、生命やその元つまり親や先祖を大切にすること、動植物をはじめ山川などの大地や自然現象にまで命の息吹を感じ、そこに神聖さを見出して共通の命の働きに畏敬を持って接してきました。しかしながら、今私たち現代人はウブスナとの関わりを意識することが急速になくなってきています。

御世代わりに際して、ウブスナの継承が行われます。火嗣ぎ(霊嗣ぎ)とも言われるこの祭は世の中の生命の更新が行われるという意味であります。それで昔は潔斎して忌み籠もりをしておりました。天皇陛下が行われる大嘗祭によって、国をはじめすべての命が更新されると考えられておりました。正月を一年の命の更新として、神から命(恩賴=ミタマノフユ)を頂くとしております。そのことが月毎や日毎に繰り返されるとして神社や家庭で祭祀が行われてきました。

日本人のこの素朴な考えは、人に内在してる魂から来る物で、世界人類が誰しも共通に持っていた筈の物です。人が私欲を持ち、理性によって合理的な考え方を続けるとき、魂から来る感性は遮られ途絶えてしまいます。その時は一度無心になり、一切の捕らわれ関係性を断ち切らなければ原点には戻れません。実は多くの社会儀礼、宗教儀礼の本質はこの魂の元(神々=命の元=天御中主神=グレートサムシング)に帰り着くことなのです。

通じ合うということー見えざる物を貴ぶ 心を養う2


都会で自然環境の規模も小さいので、この地は自然環境がケガレを浄化するには不十分です。それで神主が潔斎して神霊の祓いをお願いし、なおかつ熱心な氏子さんがいてこそ保たれています。
それで祈願の量を調整したり、熱心で清らかな方にご神霊の増長弥栄をお祈りして頂き神社護持のお手伝いと共に家内安全と霊性向上の祈り(崇敬会)をして頂いております。
参集される皆様の真心の積み重ねで奇跡的に今の状況を保っていると拝察申し上げており、お陰様でその真心に答えて頂く神霊のご守護のあらたかさを深く感じております。
これらのことは人が心もその意識も肉体も他の存在と通じ合う同調することの現れです。これを感応同行すると言い、古語では感(かま)けると言っております。このかまけるというと心奪われ捕らわれると言う意味合いで、知らない内に何か見えざる物に心奪われる、我を忘れてしまう、憑きものされてしまう、という感じがあります。
自分自身のことを思い返せば思い当たるところが多々あり、気がつかない内に周囲からいろんな影響を受けていることがあります。自分の体調をはじめ物の好き嫌いや嗜好、思想や思いつきなども作用されています。「朱に染まれば赤くなる」とは言いますが、つきあいの大切さその影響は知らない内に人の霊性にまでも作用しますから大変恐ろしいことです。また改めて自分を省みれば色んなことにかまけて人生歩んできた訳で、良いも悪いも判断できてないことが多く、運良く此処に居るという風に思えます。
ご縁が大切とは言いますがそれを取捨選択したのは自分自身というより神様のお力。「困った時の神頼み」と言いますが、「困らぬ先に神頼み」して神に手を引いて頂き、神の杖を頂きお支えして貰ってやってこられたと思います。お陰様(神様)に気がつかない内にお支え頂いたのでした。

知らない内に様々なモノと通じ合う私ども。体と心、その間に関わる気や幽体、アストラルなど正邪の区別なく存在しております。正神と正佛とモノノケの区別は人の知恵では区別できません。神を祈り想う真心だけが正神に感応し自ずと邪を避けていくとされています。
体や心、気=幽体のケガレはモノの祓いで取れていきます。例えば禊ぎをする、祈り祝詞を唱える、お祓いを受ける、人形祓いなど。しかし、魂にかかるケガレは鎮魂によって正神界の神気を直接受けなければ祓えないとされております。
鎮魂法(真の修行=神と通じる法)は真心を練り鍛えることだとされる所以がここにあります。

本来なら秘して語らず。口伝とされ、教わるべき境涯に足しないと誤解を生みやすく、注意して語るべきところまで申し上げております。それほど世は危機的な状況となっているようです。

通じ合うということー見えざる物を貴ぶ 心を養う


先日久しぶりに朝まで寝付けない日があり、気がつけば、その日には相談を受ける予定がありました。内容はうつ病になり仕事に行けなくなっているとのこと。
ふと眠れますか?問うと「昨日は一睡も眠れなかった」との答えがありました。自分が眠れなかったのはこのことだと実感しました。相談や祈願で人に会う場合は相手がそのことを強く意識しているので、祈願者や相談者の病気の場所や傷みの感じが遷ってきやすくなります。本人だけでなく家族や知人、亡くなっているご先祖のことまで伝わってきます。

感受性の高い方は良い場所や苦手な場所を感じ取ります。そして人や物にも同じように感じられる方が多いものです。そのことに気付くのは苦手な場合へ行くと何となく嫌な感じを受けることや疲れるということからはじまります。このような感受性を持っておられる方でも薄々気づいてはいるけど本人には自覚がない方が多いです。
感じることに自覚的になるとさらに敏感になり首が詰まり肩が凝る、足が重くなる、頭が重い吐き気、咳が出る、喉が渇くなどの軽い違和感を感じるようになります。そして、そのようなことが起こりえることを体験的に気付き、そのことを許容すると常に様々な気・波動に気付くようになります。人によっては過敏になり体調を壊しやすくなりますので注意が必要になってきます。※(この感受性に自分の思い込みや幻想が重なり、思い込みを現実のように感じ出す事があります。この時、現実と妄想を峻別しなくはいけないのですが、自分の心を自分で制御する危うさがあります。誰しも自然に行っていることなのでしょうが、これが上手くいかない時、心の彷徨が止めどなく続くようになるので細心の注意が必要です。)

痛みなどの辛い症状を感じだし何らかの病気に罹ったのではと感じ、例えば風邪を引いたと思い薬を飲んだり病院に行くことになることもあります。物理的に体に症状が出たならそれに対処することも必要です。漢方的な対処療法は汚気を出すと言う意味合いもありお祓いの祈願と同じく体調を取り戻すには効果的です。

良い場所や気の良い人に会うと体が楽になり、頭がスッキリして気分が良くなります。人混みや雑踏を避けて海岸や森林浴や河辺などの、自然豊かな場所に人が行くのも気の良さを感じてのことです。お祓いを受けるとスッキリして清々しく感じるのはケガレが祓われるからです。当社にお参りに来て下さる多くの方から、ここに来ると気分が良くなりスッキリすると言われます。当社は都会の中では緑豊かと言えるのかも知れませんが、残念ながら大きな森や川、海はありません。しかし、小さな森ですが自然の気に高貴な神霊の気が降りており、大袈裟に言うとこの世の至宝と思っております。

神仏と先祖を祀る      見えざる物を貴ぶ 心を養う


 近頃は神社とお寺の区別がつかない方が多いです。また逆に明治の代になるまで神仏習合していたことを具体的に知らない方がほとんどです。神社の中に仏像が、お寺の中にお社が当たり前のようにあったのですから、今では想像が付かないことかも知れません。

 江戸時代は寺請制度(檀家制度)があり、仏教がいわゆる国教であり、仏教以外の葬式は出来ませんでした。お寺は大変な権力、権威があり、戸籍の管理や宗門改をしていました。ほとんどの神社もお寺の管理下に置かれていたようです。明治になり神仏分離令のもとで、寺と神社を分け、また廃寺になった寺もあったようです。その折り坊主から神主に成り変わって神社にお仕えしているところも随分とあります。行政による制度的変遷があり、現在のように神社とお寺は全く無関係のようになり、信仰としても別の物として考えるようになっています。
 当社も三十三観音をはじめ随分と仏像があったそうですが、当時の氏子さん達が粗末にならないように近くの格式高い成就院に納めています。

神道や仏教などの信仰は文化として価値観や社会のあり方に大変重要な影響があります。それで学問(宗教学・社会学等)としても国際的には重要視されているのですが、日本の教育においてはその価値が軽視されている状態があります。そして伝統文化を破壊するような異常な政教分離が教育や行政の場で執られています。
 伝統的な日本人の文化や価値観を意図的に壊すような操作がされている感じを強く受けます。来年には天皇様の譲位に伴う即位式や大嘗祭が行われますが、昭和天皇様の折にも法の解釈などを盾に、伝統をつぶし、皇室の弱体化を通して日本を落とし入れようとする気配が感じられました。
 このような事態を招いたのは、日本人が古代より持ち続けてきた素朴ながら深く清浄な感性、そこから培われた日本人の生き方と価値観。それを壊すように、見えざる物は存在しないという考えを、幼い時から教育の場ですり込まれて、気がつけば見えざる物は存在しないと無意識に思い込まされていたからです。つまり私どもは無意識の内に、見えざる物は存在せず無価値の物としているわけです。そして、日本人は戦後教育を通して神仏と先祖に対する畏敬の念を失ってしまいました。その裏表として、人そのもの、命そのもの、自然そのものに素直に畏敬することをなくしてしまいました。
 一昔前までは日本人は自然(神)にも物にも心があるとして接していましたし、行動しておりました。自然や物 を粗末にすると自然から怒られる、見放される(恩恵を受けれなくなる)、報復を受けるなどと考えていました。同じように物にも心が在るとしたり、物に心を込めたり出来るとして、何事に対しても心を込めて真心で対応することが、人として大事なこととされていました。
 この見えざる物を貴ぶ感性(日本の霊性)そのお蔭で、日本人は勤勉で真面目であり、人の目がなくても手抜など行わず、人に知られずとも自分の真心からなる行いは神や仏やご先祖が知っておられるとしていました。そして世界で一番民度の高い国でした。

 昨今は見えざる物は認めな風潮が強く、その為神仏や先祖、そして人の気持ち、心や想い、そして生命や生命そのものの価値を認めない心情となり、その価値(日本の霊性)を認めない社会が出現しつつあると思えてなりません。
 家には神棚があり仏壇がありご先祖を祀る位牌などがあり、そしてそこにはお供え物や榊やお花などもある。見えざる物を貴び祈るという行い無しには、日本人の高い霊性は取り戻せません。道義心が強く、優しく思いやりの在る人柄の良い安心で安全な国はなくなってしまいます。
 私どもは神仏先祖を祀り、取り戻すことが必要です。神様、佛様(ご本尊)、先祖(祖霊・ホトケ)毎に祀り方があり、対応の仕方があるものです。それを正しく行うことで、家庭も社会も秩序がもたらされ、平安な暮らしが出来るとしてきました。
 そして、日本人は生き方の鏡として両陛下のお姿と大御心に触れるのです。