「指南」


○師匠とは ②

「指南」
指南とは南を指す車を作って、道に迷わないよう一定の方向を指し示していたところから、人に方向や進路を教え導く指導する意味となったと言われております。
人が物事を始める時、どのような動機なのかが大切であり、それがその人なりの志としてあらわれるものです。師匠とは自分の目標でもあります。師匠によってその志を定めてさらに高め維持できるように、知らない内に導かれて行きます。それは言葉で伝えると言うよりも師の生き方、業績から自然と知らない内に受け取るものです。師と同じ目標や志をもつて居れば、同行の先達として生き方のお手本として最も効果的な影響を受け取れるはずです。

「針が曲がれば糸が曲がる」
志が変われば自ずから到着点が変わってきます。人の事は何となく解るものですが、自分のこととなると気づかないものです。その意味において師匠を持つことは教えを頂くことと、自ら師匠と重ね合わせることなどが出来、その後においても一生自らを見つめ直す、鏡を頂くことになり本当に有り難いことこの上ないことです。
それで師に付いたことのない人は世代を超えた長い経験の積み重ねがもたらす成果を共有出来ないことが大きなネックになるようです。

〈指導を受ければ初心者でも解るようなことを知らなかったり、誤解していたり。その誤解から始まってすべてをあらぬ方向に持って行き、取り返しのつかないことになっていることがあったりします。特に霊學や密教的な体験が重視されるところでは口伝を聞かないと大変危険ですから…〉
そんな方を見て師曰く、「熱心に間違ってありますね!」とおっしゃっていました。そんなことにならないように互いに気をつけたいものです。そのぶん規制概念はないので自由な発想はあるようです。

「先人の行履(あんり)を尋ねる」
尊敬する人の行動行状を学んで理解を深め、その生き方を追体験して思想信条を学ぶことです。人から習って一生懸命になると知らない内に指導者の口調や仕草などの行動様式や考え方などが似てくるものです。学ぶとは真似る事から始まるのですから、当然何らか似てくるものです。
さらに精神的なものを追ってる場合は次に言葉にならない、もしくは言葉にしづらい領域の精神性を自ずから感受していくようになります。言わずもなが、以心伝心などと言われ、杓甁(しゃくびょう)=柄杓から瓶に液体を移すように、一つ一つ丁寧に思想や体験を通じて永年受け継がれてきた共通の認識が伝えられていきいます。行住坐臥=四威儀の日常生活すべてが修行であると仏教でも言いますが、心と心、魂と魂が直接触れ合う境界ではあらゆる事が教えとして象徴として意味をもたらしています。
師と弟子が同じ事を分かち合う同行者となる瞬間に大切な意味(秘伝・儀式の意味、本質・悟りの要諦)は伝えられていきます。道を求める時目の前の師匠でなく、過去の偉人であったり、亡くなった先達であっても同じ事です。

祭とは


 

神様をお迎えして、お持てなしする意味合いで行います。昔は熟饌と言って調理された、直ぐに食べられる状態になっているものをお供えしていました。天皇様が直接ご奉仕なさいます新嘗祭は神人共食儀礼といわれ、神さまのお供えと同じものを陛下が召し上がります。この儀礼の古儀を残したものが直会とされています。お祭り後の食事会と思われている方が多いようですが、本来は神様にお供えしたお下がりを頂き恩賴(みたまのふゆ)を体に取り込むもので、直会までがお祭りです。

この儀礼は冠婚葬祭すべての儀礼において踏襲されております。祝いの席をはじめすべての儀式では勝手に食べ始めることは出来ません、挨拶が済むまで待ってみんなで全く同じ料理を頂きます。同じ釜の飯を食べるという言葉がありますが、食事を頂くことは命を頂くことであると同時に神霊やご先祖に繋がる大切な行為なのです。
大事なことを決めたり報告する時は神社や、家であればお社やお位牌や祖霊社の前で行います。神様やご先祖照覧の上物事を進めると言うことでした。
神祭りは高天の原(天上界)と同じように行っているという信仰があります。古事記の中では高天の原でも神々がお祭りをされております。それと同じように祭をせよと言われて天皇様がお祭りをされるようになっています。我が国の成り立ちから国のあり方に関わる神勅(三大神勅)と言われる神々とのお約束があります。表現があまり相応しくないかも知れませんが、そのお約束の履行もしくは担保としてお祭りをすることになっております。陛下自らなさる親祭をはじめ、全国津々浦々で行われる御祭りには神々のもとで国を安堵する意味合いが存しております。ですから祭は外してはならないものと厳粛に威儀を正して行っております。

神社とご神体


 

社の言葉の意味は土地の神や土地の神を祀る場を表しており、神社の意はは神の居られる空間・場所を指します。それで古代は山、海、川などの自然そのものが神であり、その場所やその場を望むところが神社とされていました。
それでご神体は山そのものや海、川、瀧、泉などの自然そのものから、その場所に行かなくても神を迎えるものとして木(神籬)岩(磐座)がご神体=依り代とされていました。その後そこにお社を建てるようになります。お社の建設は神様にお家をお供えするという意味合いでされていました。
神様は社殿奥深く居られるのではなく、お祀りする度に、天からそこに降りてこられるものと考えられていました。実際のお祀りや日々の礼拝でも祈りに応えてその瞬間に神霊の気が降りて来るものであり、真剣さや精神の統一が必要な時です。その祈りが途絶えたり神霊に通じないものであれば、社殿境内から清浄の気(神気)が失せていきます。個人のお宅でも同じ事なのです。

恐れるモノは来たる (心を澄ます大切さ)


 

人は日常生活の中で多くの不安材料を抱えながら暮らしています。平素は特別に不安を感じることなく過ごしているのですが、一つ歯車が狂いだすと何から何まで不安に思えることがあります。それが高じてくるといわゆる心身症・神経症のようになることもあります。一般に言うところの不運続きと言われるようなことになります。
心には物事を作り出す力があるのですから、心の働きで望んだことが現実になっていこうとします。不安な思いなどの心の作用で心身に異常を来してしまうのですが、まずそのことに気付かず心の働き(想い)が進んでいきます。ある程度進むと心の影響力が強くなっていき、身体に影響を与えだしてきます。人の運不運もこの心の影響力を受けた結果ともいえます。心にいつも不安を持つと不運に見舞われやすくなります。そのことを「恐れるモノは来たる」と言っています。
その不安は具体的に何が不安になっているか解らなかったり、実際には過ぎてしまったことなのに…(過ぎ越し苦労)、まだ起きてもない先のことやら…(取り越し苦労)、その不安だけが勝手に一人歩きを始めたりします。不安が不安を呼ぶ連鎖が起きるようになり大変辛いことになります。ある意味でそれは自分の想いが自分に取り付くように感じられます。
実にこのような心の作用に大なり小なり人は影響されております。それで成功哲学と称して想いは実現するから、良い事をはじめ成功した様を思い浮かべるようにしなさいと言われています。それとは真逆の作用ですが、悪感情をため込んだ人の想念が本人より離れて、あたかも一つの人格のように動き回る様を生き霊と呼んでいます。
このような自分の心の影響を受けないようにするにはプラス思考、ポジティブシンキングなどが紹介されています。古来より日本で行われていたのは心を澄ますことで、心の囚われを離れて自ずと正常な心に成れるようにしていました。
神仏の修行や和歌を詠う敷島の道では当然心を澄ます事が主眼とされていました。江戸時代になると武士道をはじめ茶道などおよそ、道と付く芸道には心を澄ます事が加味されております。それで日本人の日常生活は、挨拶に始まるいわゆる礼儀作法、箸の上げ下ろしに至るまで心を澄ます事が求められていました。

古道(古神道)を伝承する当宮では、お祈りの作法の中で自ずと心を澄ますことになっています。それは祓い詞、大祓詞、「我が心清々しい」などの唱え言葉から、国の至宝と言われる鎮魂まで。それは日常生活の中においても、真心を練り鍛え、浄心することと伝えられています。
いつ何時、どんな問題があっても心悩ずとらわれずにいられれば良いのですが…。その平常心が大事なことは皆さん解っているのですが…。一昔までの日本人はその為に心を扱うこつを、躾や心得として身に付けていたようです。その平常心は清らかな心、晴れやかな心の元ですから教養として、一昔の日本人は立ち居振る舞いや姿形にまで心の現れを求めていきました。
生きて活かされている私ども日本人、常日頃の生活の中で心を乱し濁さず心を澄ます事を心掛け、麗しい日本の心情を生きていきましょう。

物の気=モノノケに注意


物の気と言うと、妖怪や化け物のことを思い浮かべます。日本の古典や民間信仰において、人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊のこととされています。
それとは別に一般には言われておりませんが、人の想念から作られるあらゆる物には波動があり、それらも物の気の一種です。それには正邪、清濁もあります。その中に思想、イデオロギー、社会制度、宗教というモノも物の気の一つとして含まれます。それが人に憑いて、考え方や生き方さらには世の中までその影響を与えます。
世界中の歴史を見ると宗教戦争やイデオロギーによる争いが多く、それは物の気の戦いと言うことです。
日本は神話の国譲りの話にあるとおり、平和な国で争い事も少なく「和を尊ぶこと」を国是としてきた国です。それは日本人が常に祓いを繰り返し私利私欲の思い、すなわち私心を去って生きることを人の生き方の本筋として守り続けてきたからです。
皇室は祭祀優先と言って神々を祀ることを最優先されています。その神祭りの基本は私心なき真心の祈りです、天皇陛下は歴代その私心なき祈り(国安かれ民安かれ…)を続けておられます。それに呼応する形で伊勢神宮をはじめ全国の神社があり、各家庭に神棚が祀られているのが日本国の日本国たる所以であります。
神話に始まったことが今も続けられている、このような国は世界では日本だけしか有りません。どんなに古い伝統や物でも今もその通りに続けられていれば遺産ではありません。伊勢神宮は二十年に一度建て替えますので遺産にはなりませんし、聞くところによれば国宝が無いとさえ言われています。世界で最も古くから続く王朝の世襲行事である大嘗祭も、その御殿をはじめ全ての祭具類は臨時の物として終われば取り壊されます。必ず続けるということが大事なことで、それは神様とのお約束(神勅)なのです。それで日本は神国でありそこに暮らすのは神国の民、神の末裔だと言えるのだと思います。
これだけの素晴らしい歴史伝統を持ち、国家元首であられる陛下からお祈り頂ける国民であることは本当に有り難く、心から日本人でよかったと思います。
それをどうやって守り続けた来たのか、それは申すまでもなく神祭りを行い、私心を祓ってきたからです。日本では宗教的な教義や戒律はなくとも、農耕と神事と先祖祭を通して、地域社会の中で共存していく知恵を育み、人の生き方として継承してきました。公という自然や社会の中で個人を優先することなく、公を優先し準ずる生き方。話し合いで「和」を徳目とした社会の緩やかな関係性の中で、謙虚さや謙譲するおおらかな風土を作り伝えてきたのです。それゆえ日本人は私心を少なくして、自ずと物の気から守られてきたのです。
日本には大化の改新以前から様々な文化や技術や制度、様式が入りましたが、いつの間にか日本的にして取り入れてきました。それは思想やイデオロギーという物の気に取り込まれることなく、私心なき無私の心という神霊に通じる真心で生きてきたからです。真心であれば知る知らずにかかわらず、神の導きにより自ずと物事を間違わずに行えるものです(直日霊の働き=人の本質)。

現代は神祭りの風習、信仰も薄れかけています。そして、物の気は宗教の対立や個人主義、科学合理主義、社会主義、共産主義、市場経済、金融工学、IT産業、グローバリズム等手を変え品を変え襲ってきます。
日本は国難それも日本存亡の時と思われます。日本の国柄で言えば皇室が従来通り継承できない時は、神勅を果たせないことになります。それは日本が日本でなくなる始まりと思えるからです。
私どもは戦後教わらなくなった神話をはじめ国の歴史を学び直さなくてなりません。そして戦後教育の国を滅ぼすほどの大きな歪みを正さなくてはいけません。それは皆さんお気付きの日教組が行った、日本人が日本の国と日本人を嫌う為の反日自虐史観に基づいた教育です。それは教育からマスコミなどの言論や思想空間に植え付けられています。
この呪縛から離れ、日本の国の歩み、日本人の生き方に誇りを取り戻し、これから日本の国は如何にあるべきか、日本人はどのように生きていくべきかと問い直さなければなりません。日本文明はアジア中国文明の亜流などではなく、全く違った独自のものです。それも他のすべての文明が亡くした神と共に思い自然と共に生きる「随神の道」継承している最後の文明です。
歴史は今を正しく写す出す鏡として活用すべきものとして、古来日本では歴史書を鏡と名付けてあります。これからも悠久の時を継承できる鏡を取り戻さなくてはいけません。

あらゆる物の気を祓って、日本の国本来の輝き霊性を取り戻したく思います。その鍵は清く正しく生きること。神仏・親先祖を大切にすること。神と共に働くという労働の神聖観を持つこと。君民一体となって自然をはじめ世間様に生きて活かされているという生命観を持つことでありましょう。