神道の真髄は神霊とのつながり


◎ 師や先達を通じて心境が進み、志が堅固になって神に正見出来たなら、神直接の教えを受け取りなさい。人の濁れる知恵などに依らずに…。

何も心配なさるな。人は神授の直日霊を受けており、直日霊に解らぬものなどはない。随神の正道は人の真心浄心に託すのみ。

◎ 日本が世界に誇るべき一番の精神性、世界の行き着く先の唯一の希望となる道(教え)。それがこの日本文化、神道の心髄としてあるかんながらの道、古道と言われるものだと思っています。
世界中には多くの信仰の書や精神世界の本などありますが、人の本質である直日霊について触れた文章はほとんどありません。この直日霊の突き動かしにより「和の国」と言い、「和を以て貴しと為す。」とした日本人。「人種差別撤廃」を説き「植民地解放」を導いた日本人。今、日本人はこの道を継承しなくてはならぬ使命があると思っています。

「自灯明、法灯明」


「自灯明、法灯明」
お釈迦様の入滅される前に弟子に示された最後の教えだといわれる、「自灯明、法灯明」と言う言葉があります。
その解説は「釈尊の死が間近であったときに、師が亡くなったら、何に頼ればよいのかと嘆く弟子のアーナンダに対して諭された言葉である。釈尊はアーナンダの問いに答えて、私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよと釈尊は説かれた。」とあります。

「自灯明、法灯明」を無粋にも直日霊を中心に私見を申し上げますと、自灯明は自己を滅し、自己の本質に帰ることであり、直日霊に成りきれと言うことになります。人の本質が神であることを前提として、人は神と共にこの世の生成化育に寄与することとされます。
法灯明とは宇宙の大法である天御中主神の生成化育の経綸に違わず生きて行くことです。宇宙、自然、人はすべて神の内分にあり、人は神より直日霊を頂く万物の霊長の使命を有しています。
さらに言い換えますと自灯明は自己の神性に目覚めその神性を拠り所とし、それを師とすることです。法灯明は神々の経綸を拠り所とせよと解されます。神々を自然を師とすることです。その状態その有り様を古く日本では随神=かんながら、または古道と呼んでいます。

「直日霊」


「直日霊」
人の直日霊は神そのものであり、全くの善であり光とされています。人が計らい心を捨て全くの無心になりきれば人の直日霊が働くようになり、人は本質である神そのものとなるとされています。無心になり神心になると、人の精神は直日霊そのものとなりすべてを映す鏡となります。
「カミ」と「カガミ」語呂が似ており、鏡から我を外せば神になると誰かが語呂合わせで言われいたのを聞いたことがあります。旨いこというものだと感心しました。確かに鏡は不思議なもので、そのもを映し出しますが、あくまでもそのものでなく映ったものであります。 神社では鏡をご神体に使いますが鏡に太陽を当ててそれを見ると太陽そのものであり、鎮魂中に見る御神霊の光と同じく見えます。それでご神体にしたのだと思ったことがあります。

〈古神道のある流儀では太陽を見てその残像に集中する鎮魂法があり、まざまざと太陽を見つめている感覚になります。また、中国の道教系の神像には三丹田=額と胸と肚に鏡がついた像があります。三丹田に光をイメージする瞑想との関連が窺えます。〉

この直日霊は自分自身の本質なのですが、私たちの普通に生活し思考している顕在意識では知ることも計ることも出来ません。それでいて私たちの最高の指導者なのです。私どもが心を澄ませば直日霊から叡智が流れ込み気がつかぬ内に正しく歩んでいけます。
神道の鎮魂修行には次のような教えがよく言われます。「神道は人の知恵の入らない神の叡智の教え」、「神と自分の間に人を介さず、神から直接習う」「神習う道」。さてこれらのことは直日霊を師として習うことを意味しており、その直日霊が実は御神霊であると言うことが、随神の道の要諦なのです。これを知識として知るのでなく、魂で自得すると言うことなのです。

「鏡」真澄鏡 直日鏡 


「鏡」真澄鏡 直日鏡

日本の古典とされる歴史書は四鏡といわれる『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』が知られています。その鏡とつけられた真意とはは歴史によって今を正しく映す(知る)為と聞いたことがあります。
師匠は自分を映す鏡に喩えられることがあります。師によって己の本質に気付かされます。そして自分自身を見つめ直して誤りに気がつくことが出来るようになります。自分自身で自分の心の奥底に気付く尺度を頂いた師とは、生死を超えて魂の繋がりがあるように思えます。師が亡くなった後も事ある毎に師の言葉や行い、後ろ姿とも言われる生き様、その謦咳に触れた思い出と共に自分を導いてくれる思いがします。
修行中は思いもよらぬ事ですが、時が過ぎ気がついてみれば師は自分を映し出す鏡として生死を超えて導いてくれる有り難い存在であります。それでこそ三年かけて師を探せという言葉が重く思い出されてなりません。

「指南」


○師匠とは ②

「指南」
指南とは南を指す車を作って、道に迷わないよう一定の方向を指し示していたところから、人に方向や進路を教え導く指導する意味となったと言われております。
人が物事を始める時、どのような動機なのかが大切であり、それがその人なりの志としてあらわれるものです。師匠とは自分の目標でもあります。師匠によってその志を定めてさらに高め維持できるように、知らない内に導かれて行きます。それは言葉で伝えると言うよりも師の生き方、業績から自然と知らない内に受け取るものです。師と同じ目標や志をもつて居れば、同行の先達として生き方のお手本として最も効果的な影響を受け取れるはずです。

「針が曲がれば糸が曲がる」
志が変われば自ずから到着点が変わってきます。人の事は何となく解るものですが、自分のこととなると気づかないものです。その意味において師匠を持つことは教えを頂くことと、自ら師匠と重ね合わせることなどが出来、その後においても一生自らを見つめ直す、鏡を頂くことになり本当に有り難いことこの上ないことです。
それで師に付いたことのない人は世代を超えた長い経験の積み重ねがもたらす成果を共有出来ないことが大きなネックになるようです。

〈指導を受ければ初心者でも解るようなことを知らなかったり、誤解していたり。その誤解から始まってすべてをあらぬ方向に持って行き、取り返しのつかないことになっていることがあったりします。特に霊學や密教的な体験が重視されるところでは口伝を聞かないと大変危険ですから…〉
そんな方を見て師曰く、「熱心に間違ってありますね!」とおっしゃっていました。そんなことにならないように互いに気をつけたいものです。そのぶん規制概念はないので自由な発想はあるようです。

「先人の行履(あんり)を尋ねる」
尊敬する人の行動行状を学んで理解を深め、その生き方を追体験して思想信条を学ぶことです。人から習って一生懸命になると知らない内に指導者の口調や仕草などの行動様式や考え方などが似てくるものです。学ぶとは真似る事から始まるのですから、当然何らか似てくるものです。
さらに精神的なものを追ってる場合は次に言葉にならない、もしくは言葉にしづらい領域の精神性を自ずから感受していくようになります。言わずもなが、以心伝心などと言われ、杓甁(しゃくびょう)=柄杓から瓶に液体を移すように、一つ一つ丁寧に思想や体験を通じて永年受け継がれてきた共通の認識が伝えられていきいます。行住坐臥=四威儀の日常生活すべてが修行であると仏教でも言いますが、心と心、魂と魂が直接触れ合う境界ではあらゆる事が教えとして象徴として意味をもたらしています。
師と弟子が同じ事を分かち合う同行者となる瞬間に大切な意味(秘伝・儀式の意味、本質・悟りの要諦)は伝えられていきます。道を求める時目の前の師匠でなく、過去の偉人であったり、亡くなった先達であっても同じ事です。