ケガレ・祓へ・潔斎 2


今までは身体的な祓いについて書いておりますが、精神感応するケガレがありこれはとても厄介です。落ち込んだり、寂しくなったり、イライラしたり、怒りがこみ上げてきたり、卑しくなってものが食べたい飲みたいとか、その極みは死にたくなったりすることもあります。この場合は外部からの何らかの影響でこうなったとは気づきませんので、そのままやり過ごすことになります。
おかしいと気がつけばそんな折は取り敢えず御行(お祈り)をすることです。何時もお祈りしている方なら、お祈りの精神状態の違いを感じて自分の感情でないことを知ることが出来ます。そして、そのような気分になる前に話した人や起こったことなどを思い浮かべて行くと、関係があるところで何らかの反応があります。精神感応した対象が判明すると急に自分の心境が正常に戻っていき、これが原因だったと確信できます。今までが嘘のように気持ちが変わりますので祓った人も祓われた人も共に感じるものです。

祈願では祓戸大神にお願いするのですが神主の気とそこに降臨する神気によって祓われます。神気を降臨する能力を鎮魂力と言い、人の魂の働きによって神様(神気)をお呼びすることが出来のです。その魂の働きを強める為に禊ぎ潔斎と言われるお祓いが重要視されます。
※古事記の三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)の出現は禊ぎの最終で行われており、最も尊い神が禊ぎで最も清まった極みに出現されています。人の神性顕現は清めに清まって起こることを伝えており、人生の意義が語られているとされています。人は神の子孫であり、神と同質の直日という御魂を授けられているとする。〈古神道の口伝〉

また同時に祓詞や大祓詞祝詞の言霊の力、それと太鼓や鈴、拍手などの音霊の作用もあります。
ご自分で祈っても同じように祓われるのですが、自分では穢れと同期しているので取れにくいことがあり、人から祓ってもらう方が効果的なことが多いものです。
それと気分転化をするとその瞬間に落ちるようにケガレが取れることがあります。それは同調してチャンネルがあっていたのが切り替わるような感じです。また眠りや精神統一も同じように瞬時に変わることがあります。
とりわけ鎮魂と言われる神道の深い統一状態においてはその変わり様は驚くほどです。
このケガレは人の想念から作り出され、積み重なり同質の物が集合を繰り返し、巨大になっていくとされています。そして家のケガレとして先祖から子孫に継承されたり、土地のケガレとして残っていったり、組織や団体に関わって存在するもの、また国家と言う単位でもケガレとされるものがあるとしています。このケガレが溜まると個人レベルでは病気、事故、争い事や様々な不幸な事が起こるとされています。その原因がケガレというわけです。
大きく国家や社会レベルではケガレの蓄積によって気象異常天変地異が起こり、世が乱れて紛争が絶えないことになるとされています。古来の大祓は国として平安である為に天皇様から政治家官僚、国民の末々に至るまで祓いをするとされてきたのです。今、日本の国の様を見れば、異常気象と地震や火山活動のいわゆる天変地異が続き、隣国の中国、韓国、北朝鮮などの紛争の火種の中に居り一触即発の一歩手前という感じです。
このような時の気象異常天変地異は神々=自然のケガレを祓おうと自浄作用であり、警告でもあります。
国家レベルの大祓には天皇様の祈りに心合わせる国民の祈りが必要になります。江戸から明治そして戦後とを比べると、人々はどれ程神仏先祖に対する崇敬心を失ったことでしょうか。家庭には氏神様、釜戸の神様、井戸の神様、ご先祖を祀り、辻々にも地の神様、お地蔵様、庚申様などを祀っていました。そして、何をしようとも、どこへ行こうともまず祈ることから始めておりました。
神々からこの世を任されているのが皇孫である天皇様であります。天皇様からこの世のことをお任せ頂いているのが総理大臣以下すべての国民というのが日本的な霊性から見る社会観です。
それゆえ、長(おさ)司人(つかさびと)と呼ばれる政治家、官僚、経営者らは無私につながる公正さを自他共に必要な事としてきました。天地神明に奉仕し、世間様に無私に奉仕する心根が神霊を動かす唯一の力です。人々に神霊を動かすほどの真心が求められている時であります。
「 天に代わって政道を正す」。残念ながら、もう時代劇でさえ聞かないフレーズです。
天に任して地に頼る、天地と共に生きて生かされる。随神の道は宇宙不変の法則に連なる真理の道。古来日本人はこの道に連ならんと祖霊を祀り、天地を祀ってきたのです。神社ブームを超えて真にかんながらの道の復興を願います。
「神道は祓へに始まり祓へに終わる」まずは自らのお祓いからですね。

神道の真髄は神霊とのつながり


◎ 師や先達を通じて心境が進み、志が堅固になって神に正見出来たなら、神直接の教えを受け取りなさい。人の濁れる知恵などに依らずに…。

何も心配なさるな。人は神授の直日霊を受けており、直日霊に解らぬものなどはない。随神の正道は人の真心浄心に託すのみ。

◎ 日本が世界に誇るべき一番の精神性、世界の行き着く先の唯一の希望となる道(教え)。それがこの日本文化、神道の心髄としてあるかんながらの道、古道と言われるものだと思っています。
世界中には多くの信仰の書や精神世界の本などありますが、人の本質である直日霊について触れた文章はほとんどありません。この直日霊の突き動かしにより「和の国」と言い、「和を以て貴しと為す。」とした日本人。「人種差別撤廃」を説き「植民地解放」を導いた日本人。今、日本人はこの道を継承しなくてはならぬ使命があると思っています。

「自灯明、法灯明」


「自灯明、法灯明」
お釈迦様の入滅される前に弟子に示された最後の教えだといわれる、「自灯明、法灯明」と言う言葉があります。
その解説は「釈尊の死が間近であったときに、師が亡くなったら、何に頼ればよいのかと嘆く弟子のアーナンダに対して諭された言葉である。釈尊はアーナンダの問いに答えて、私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよと釈尊は説かれた。」とあります。

「自灯明、法灯明」を無粋にも直日霊を中心に私見を申し上げますと、自灯明は自己を滅し、自己の本質に帰ることであり、直日霊に成りきれと言うことになります。人の本質が神であることを前提として、人は神と共にこの世の生成化育に寄与することとされます。
法灯明とは宇宙の大法である天御中主神の生成化育の経綸に違わず生きて行くことです。宇宙、自然、人はすべて神の内分にあり、人は神より直日霊を頂く万物の霊長の使命を有しています。
さらに言い換えますと自灯明は自己の神性に目覚めその神性を拠り所とし、それを師とすることです。法灯明は神々の経綸を拠り所とせよと解されます。神々を自然を師とすることです。その状態その有り様を古く日本では随神=かんながら、または古道と呼んでいます。

「直日霊」


「直日霊」
人の直日霊は神そのものであり、全くの善であり光とされています。人が計らい心を捨て全くの無心になりきれば人の直日霊が働くようになり、人は本質である神そのものとなるとされています。無心になり神心になると、人の精神は直日霊そのものとなりすべてを映す鏡となります。
「カミ」と「カガミ」語呂が似ており、鏡から我を外せば神になると誰かが語呂合わせで言われいたのを聞いたことがあります。旨いこというものだと感心しました。確かに鏡は不思議なもので、そのもを映し出しますが、あくまでもそのものでなく映ったものであります。 神社では鏡をご神体に使いますが鏡に太陽を当ててそれを見ると太陽そのものであり、鎮魂中に見る御神霊の光と同じく見えます。それでご神体にしたのだと思ったことがあります。

〈古神道のある流儀では太陽を見てその残像に集中する鎮魂法があり、まざまざと太陽を見つめている感覚になります。また、中国の道教系の神像には三丹田=額と胸と肚に鏡がついた像があります。三丹田に光をイメージする瞑想との関連が窺えます。〉

この直日霊は自分自身の本質なのですが、私たちの普通に生活し思考している顕在意識では知ることも計ることも出来ません。それでいて私たちの最高の指導者なのです。私どもが心を澄ませば直日霊から叡智が流れ込み気がつかぬ内に正しく歩んでいけます。
神道の鎮魂修行には次のような教えがよく言われます。「神道は人の知恵の入らない神の叡智の教え」、「神と自分の間に人を介さず、神から直接習う」「神習う道」。さてこれらのことは直日霊を師として習うことを意味しており、その直日霊が実は御神霊であると言うことが、随神の道の要諦なのです。これを知識として知るのでなく、魂で自得すると言うことなのです。

「鏡」真澄鏡 直日鏡 


「鏡」真澄鏡 直日鏡

日本の古典とされる歴史書は四鏡といわれる『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』が知られています。その鏡とつけられた真意とはは歴史によって今を正しく映す(知る)為と聞いたことがあります。
師匠は自分を映す鏡に喩えられることがあります。師によって己の本質に気付かされます。そして自分自身を見つめ直して誤りに気がつくことが出来るようになります。自分自身で自分の心の奥底に気付く尺度を頂いた師とは、生死を超えて魂の繋がりがあるように思えます。師が亡くなった後も事ある毎に師の言葉や行い、後ろ姿とも言われる生き様、その謦咳に触れた思い出と共に自分を導いてくれる思いがします。
修行中は思いもよらぬ事ですが、時が過ぎ気がついてみれば師は自分を映し出す鏡として生死を超えて導いてくれる有り難い存在であります。それでこそ三年かけて師を探せという言葉が重く思い出されてなりません。