「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録 平成23年9月8日


一 はじめに

神職の皆様方にはいつも斯道のためにご尽力され、まことに御苦労に存じます。

さて、講話や講演となると、大抵は要領よく、当たり障りの無い、どこでも言われるような最大公約数的なことを話すのが一般的でありますが、私はそのような面白みのない、無駄なことは致しません。第一、それは御神霊・御英霊に対しても、また皆様方に対しても最大の無礼であります。
自分自身の考えや意見を言わずして、皆、ありきたりの他人の意見ばかりを口にしてお茶を濁して、そんなものが一体何のためになるというのでしょうか。一期一会という言葉が御座いますが、誰にとっても二度とは無い、かけがえの無い、この生命(いのち)の時間を無駄にしてしまっては、神々やご先祖様方に対しても大変申し訳ないことです。
特に世界は今、あらゆる面で崩壊の兆しが見えており、のっぴきならない大きな時代の転換期を迎えております。これからがまさに、日本が世界に対して大きな役割(人類が真に生きるべき道を明らかにするという使命)を果たすべき時が来たと実感致しております。世界の滅亡を真に救えるのは、何よりも神霊の実在を説き、生命(いのち)を畏敬する生き方(教え)を実践する日本の神道しかありません。従って、皆さま方、神職一人一人の責務は真に重大であるという訳であります。
ということで、今日は、神道研究者として、また神道信仰に生きて来た者の一人として、神道が抱える課題やその目指す道について私なりの心情を吐露させて戴き、いささかでも専門神職の方々にお役に立てれ・・と願っております。

神道は天地悠久の大道であり、あまりにも霊妙且つ深遠であるために、神道が包括するその全容というものは人がどんなに言葉を尽して「これこれこうである」と語ったとしても、それはただ単に神道の一面を述べたに過ぎず、その全容や本質部分というものは両手に掬(すく)った水が指の間から直ぐに漏れ落ちて行くように、決して掴み得ないものであり、また決して語り尽せるというものではないと思います。今日はそれを十分承知の上で、このまたとない機会に御神霊・御英霊の御加護とお導きを請いつつ、本日のテーマについてお互いにジックリと考えて見たいと思います。

二 今、人類の生き方が問われている

私たちは近代化と共に、日本人として、人(霊止)として無くしてはならないとてつもない大切なもの(日本人としての気高い霊性の輝き)を失ってしまったという感が強くあります。今日は、日本人
の霊魂(タマ=霊性)の働きが一体どんなものであったかを見直し、考え直してみたいと思います。
今、私たち日本人のみならず、地球上に生きる人間の、人類の生き方そのものが大きく問われております。人類のこれまでの生き方に対する大精算が行われ、あらゆるものが崩壊の一途にあります。日本だけに限って言えば、三月十一日の東北関東大震災や福島原発事故はいったい何を私たちに語り伝えようとしているのでしようか。
結論を先取りして端的に申しますと、私たち(人類)が「神を見失った」ということであり、「神意に反しては一日たりとも生きて行けないのだ」ということであります。先祖以来、大自然のはたらきに神の存在を感得し、「自然は神なり」としてあらゆるものの中に生命の息吹を感じ、讃え、神と共なる生活をして来た私たち日本人です。山には山の神が、海にはわだつみの神が、そして樹齢数百年もの樹木には注連縄を張り巡らして「これは御神木」であるとして聖別し、大切にしてきました。 その私たち日本人が、太平洋プレートやフィリピン・プレート、ユーラシア・プレートなど幾つものプレート上にある日本列島であることを知りながら、火山大国・地震大国日本であることを承知しながら、活断層の上に平気で五四基もの原子力発電所を建設し、緑なす山や森、河、美しい海、母なる大地を放射能で汚して来たのです。清浄を尊び、穢れを忌み避けて来たはずの日本人が、これに対して何とも思わなくなってしまったのですから、これは「神への冒涜」以外のなにものでもありません。日本人の霊性が麻痺したのだとしか言いようがありません。

「真の幸せの道」を求めて   人はなぜ病むのか 2


3. 如何にすべきか
      原因は「親の生き方」にある

 一体「人はどのように生きるべきなのか」「どう生きるのが本当に正しい生き方なのか」「人としての踏み行うべき道」と言うものを知らずしては、バランスも調和もあったものではありません。自分たちが「親」を大切にしないで「子」はどこで「生命の大切さ」を学ぶのでしょうか?…。

 明治以降、欧米列強に負けないよう、それに追いつき追い越せとばかりに我が国は急速に「近代化」を推し進め、西洋の目新しい文化を盛んに取り入れ模倣すると同時に、彼らの科学合理主義・唯物主義・個人主義思想までほとんど無批判に受け入れきたのであり、戦後は一層その傾向に拍車がかかったと言えましょう。その為にそれまで大切にしていた先祖以来の麗しい生活習慣や伝統、文化という物をいつの間にやらスッカリ反故にしてしまいました。
 勤勉実直な日本人は戦後の物不足と精神的虚脱、廃墟と化した町から必死に立ち上がり、汗水垂らして働き続け、努力に努力を重ね今日見るような豊かな物質的繁栄を築いて参りましたが、と同時にふと気がついてまわりを見渡してみると、従来「東洋の君子国」とも言われ、世界の道徳的模範であった「神州清潔の民」はその生きるべき「道」を見失い、民族の気高い精神と道義心は何処かへ忘れ去り、国も町も村も家庭もその強固な生命の絆はズタズタに断たれ個々バラバラに解体され、全く行き場を失ってしまいました。
「隣は何をする人ぞ」というごとく、人々は個々バラバラで互いに無関心・無干渉を良しとし、地域共同体の絆はどんどん解体されていき、その社会の価値の中心であり人々を結びつけていた神社の神々と氏子関係は次第に弱体化し、人々はもはや共通の同じ物語を紡げる喜びを失い、誰とも〈真に心をかよわす〉ということが出来なくなり、ために誰もが〈精神的に不安定な状況〉に置かれていると言えましょう。
 
 人心の荒廃ぶりはすさまじく、人々はすっかり人間性を喪失し、「神を畏れ生命を畏敬する心」を無くしてしまい、己の生命をこの世に生み出し育んでくれたどんなに感謝してもなお余りある「生命の源」である自分の親・先祖の御霊さま方や御英霊をないがしろにして平気な人間ばっかりになりつつあります。この世には金・物や己の学歴・地位よりも大切なものがあるのだということが、分からなくなってしまいました。この頃は「世のため人のために」と言った生き方をする人が少なくなり、他人や社会・この国がどうなろうとかまわない、「自分さえ良ければいい」といった「吾良し」のエゴの塊のような人間が増えてきました。それと呼応するかのように、現代社会は「ストレス社会」とも言われるように〈精神を病む〉人々が非常に多くなってきました。

 見えない神仏や、人間死後の世界などはまるで信ぜず、「自分が今在る」のは神仏のお蔭、親・先祖のお蔭、社会のお蔭であると言うことに全く思い至らず、すべては自分一人の才能・努力によるものだと思い誤っているその〈自己中心的な生き方〉をする親こそが、その家の先祖から反省を求められているのだとも言えるのです。
 原因は発病したその子供にあるのでなく、実は〈親・先祖を常々心から偲び供養する優しい心〉を持たない自己中心的生き方を続ける両親にあるのです。死者の御魂がしきりに気付いて欲しいと訴えかけているのは、子供でなく、その親に対してなのです。

 4. おわりに  「鎮守の杜」の復権

私たちの遠い先祖がその瑞々しい豊かな霊性と感性、叡智で残してくれた『古事記』神話や古典を宮司さんや神主さん方と共に紐解き、今こそもう一度、日本人のアイデンティティを、その誇りと自信を、強い絆を取り戻しましょう。そして、身の回りの知人・友人や子や孫達に自信を持って「人間はどう生きるべきなのか」「どのように生きるのが本当に正しいのか」をシッカリ伝えていきましょう。

 神社は地域社会のネットワーク作りに強い力を持っております。私たちの幸せのもと、価値の中心が鎮守の杜なのですから、神社を中心にちょっとした挨拶や言葉がけを大切にし、人々の和をより一層大きく広げていこうではありませんか。
身の回りの人達が一人で悩んで社会を騒がすような邪教や悪徳宗教教にだまされ取り込まれることのないように、〈自分は一人ではない〉のだということを誰もが信じられるような、お互いに心から助け合える強固な地域社会の絆〈関係〉を神社を中心に取り戻しましょう。
 私たちのこの肉体は時間の経過と共に年々生理的に年を取っていきますが、内に宿る精神・心は年を取りませんし、また老いることもありません。
心はいつまでも青年時代の若々しさを保ち、輝いて生きていこうではありませんか。どんな方でも生命ある限り、神に生かされている限りはこの世に果たすべき使命・務めがあるわけですからともども斯界の発展のために頑張りましょう。

 私たちはとにかく肉体だけをすべてと思い、現世中心の物の見方や考え方をしがちですが、この現象界にだけに捕らわれた人生観・世界観を改め、霊的実相世界をも含めて「世界」なのであると言うことを認識する必要がありましょう。この肉体が滅んでも生き続ける不滅の霊魂の存在することを知って、死後決して「ああしたかった、こうすべきだった」と様々な欲念や思いを残し、苦しみ嘆き悲しみ、焦り、戸惑い、悔悟の念に苦しみもがいて、子孫や血縁者に取りすがって困らせることのないよう、日々なんとしても悔いのない人生を送りたいものだと思います。

「真の幸せの道」を求めて


人はなぜ病むのか

平成十二年六月三日 神社総代会 講話

1.はじめに

 環境破壊、政治の貧困、経済の破綻、宗教・教育の堕落、悪質詐欺、法曹関係者の犯罪の急増、警察、・自衛隊の不祥事、忌まわしい凶悪犯罪の頻発、悪質外国人の横行、広がる麻薬汚染、悪質極まりないいじめ、少年犯罪の多発、家庭崩壊…などなど、内憂外患のまことに憂慮すべき深刻な今日の社会状況はここに改めて述べるまでもございません。

 戦後の日本社会は「親が子供を説得できない」という、大人が日本人としての誇りと自信、〈どう生きることが正しいことのか〉という生きるべき「道」を見失ってしまい、誰もが「拠り所」を求めて探し回っている時代と言うことが出来ましょう。
 つい先日も五月の連休に十七才の少年によるバス・ハイジャックや動機無き殺人事件が発生し、社会に衝撃を与えました。
入院先の精神病院から一時外泊の許可を得て、出てきたその日の犯行であったという。「優等生であった」という少年達が何故、このような犯罪を起こすのでしょうか?。大人しい良い子であった子供達がどうして家庭内暴力を振るうようになるのでしょうか、「精神を病む」に至のでしょうか?…。本日はこの点について皆様と共に考えてみたいと思います。

 2.人はなぜ病むのか
      精神病は死者からのメッセージ

 記紀などの古典を見ますと、たとえば第十代崇神天皇の御代に疫病が流行り、国民の大半が死に絶える事態に至ったがそれは大物主神の神気(かみのけ)・祟りであった。また、允恭天皇(『日本書紀』五年秋七月条)に己丑(十四日)に地震があったが、その原因は反正天皇の御魂の怒り荒びによるもであった。天皇の殯宮に供奉しなければならい筈の「殯宮大夫玉田宿禰」が不埒にも殯の任務を放棄し、他所で男女を集えて祝宴を催していたために天皇の御魂が怒り荒ぶるに至ったのだと記している。

 また、「古記」によれば長谷天皇(雄略天皇、一説には景行天皇とも)が崩じた際に、殯宮に遷して七日七夜の間「酒食」を奉らなかったために天皇の御魂が怒り「荒びたまいき」とあり、その御霊のために諸国に遊び部・比自支和気を捜し求めた記しております。
 これらによっても、古代から〈御魂を鎮め和す〉ということが如何に大切な事であるかが分かって頂けるとこと思います。
 一昔前までは「お天道さんが見て御座る」「ご先祖さんに顔向けが出来ない」「それでお前の道が立つか」などといった言葉が如実に示しているように、私たちは〈見えざる神や仏、ご先祖様の存在〉を自明の事として信じて疑わず、誰もが日々の生活の中で神仏・死者即ち〈親先祖の御魂と向き合って暮らしていた〉ものでありました。
 四季折々に、つまり春秋の彼岸やお盆・年忌の時ばかりで無く、日々地元の氏神様や親・先祖のご恩を片時も忘れることなく、それは誰もが人として当たり前のこととして心からの〈感謝の生活〉に明け暮れしていたのです。
 そこには遠い遠い先祖からの【接続の生】というか、しっかりとした【生命の連続】【生命の継承】がありました。このように先祖(死者の御魂)と子孫との関係が正しくある限り、人の道を踏み外すような余程のことでも無いかぎり、死んでから迷うというような御魂もいなければ〈先祖が警告する(霊の憑依)〉などということも無かったのです。このことを皆様、心に留めておいて頂けたらとおもいます。
 
 如何なる民族もその民族固有の神話、伝統的精神と独自性を、民族の誇りを失い、帰一すべきその「中心」を失ってしまったら、糸の切れた凧のように果てしなく暴走を始め、しまいには滅亡するしかありません。
 この太陽系宇宙においては惑星は太陽を中心に自転公転していることで、その調和・バランスが保たれております。中心たる太陽との目に見えない繋がり(絆・関係)があればこそ、世界は崩壊せずに秩序を保っているのであり、国においても家においても同様でありましよう。
 皆さも良くご存じのように、記紀「天石屋条」において天照大御神が岩屋戸に籠もられたことによって常夜往くこととなり、あらゆる災いが満ち満ちて世界はまさに崩壊の寸前までに至りました。
 何事においてもこのバランスをとること、個と全体の統一・調和が大切と申します。心と身体のバランスを欠いた時には人は心身の〈病に罹る〉のであります。バランス調和と保つには、一体〈どうあることが正しい状態であるのか〉を知っていなければなりません。

 樹木は太陽の光熱や炭酸ガスばかりでなく、目に見えない地面の下の根からの水分や栄養の吸収あってこそ天地の間にスックと聳え立っていることが出来るものであります。この「根」と「幹」と「枝」のバランス(調和)と申しますか、繋がりあってこそ樹木は生命を保ち得、未来永劫にわたって繁茂できるわけでございませんか。一家の中心とも言うべき、また、生命の元・根とも言うべき親・先祖の御魂と断絶してしまっていては、私たちの生命も日々の生活もただちに枯渇していくかありません。
 私たちが常々、親・先祖や血の繋がる近親者の御魂を《心から偲び、慰霊供養する優しい思いやりの心》忘れて去っていては、自分が死んだと未だに自覚出来ない死者、いつまでまでもこの世に様々な思いを残して彷徨し続ける、いわゆる悟り無き〈未だ成仏できていない御魂〉は浮かばれず、救われる機会なきため、その〈堪え難い苦しみ〉を血縁者のものに何とかして分かってもらおうと必死に訴えてくるものです。それが近代医学が「精神病」と称しているものの主な原因となっていることが非常に多いのだと言うことを私たちは知るべきだと思います。 つまり、「精神病」は病気でないのであり肉体の病でない以上は単に薬や注射では治らないということ、親が死者の霊魂を真心込めて慰霊しご供養していけば必ず治るのだということなのであります。


神道  日本人の生きる道(九)  ー質疑応答編2ー


私の個人的な疑問で皆さんにも聞いて頂きたい事をお話します。

◎ 至霊・直霊を「頂いている」「賜っている」と言いますが、そうするとそれは自分とはまた別の存在で、自分自身とは言えないと いうことでしょうか?

決して別の存在というものではありません。本当の自分自身、本来の自分なのです。不可視の霊魂のことは頭で如何に考えても決して分かるものではありません。
一霊(直霊)と四魂、肉体とは普段、ピッタリと別れ難く結びついて一体化しており、そのため、一般人にはどれが直霊、どれが四魂、どれが魄(はく)などと、分けて解することは不可能ですが、霊學の修行者にはこれがハッキリと分かる ものです。

◎ 幽の祓いと、我が霊・我が体、の話は違う次元の話でしょうか?
幽の祓いを受けて祓われるという事と、「他神ありてこれを護るにあらず」という事は矛盾するのではないかと疑問に思いました。

事の大小といった、違う次元の話ですね。なにも矛盾しないと思います。誰でも子供の時、「自分のことは自分でしなさい」と親から教わります。ところが、自分でもどうにもならない、己れの身に余ることが起きた時には、親に助けてもらったりするものです。

世間の人は神や佛というものは「外にのみある」と錯覚し、かたくなに思い込んでおり、己(おのれ)の身の内に生まれ乍らに神授の霊魂(産霊神の分け霊)が宿っているということを全く知りません。
だから、外に守護霊や守護神が居るなどと思い込み、そしてそうした ものが自分たちを守っているのだとスッカリ錯覚しているのです。まったくもって無知の極にあるというべきでしょう。

私たちは誰であっても「神の子である」ということをしっかり自覚し、もっと「自分の尊さ」に目覚めて、どこまでも己を大切にし、巷のおかしな宗教などに騙(だま)されないように、穢(けが)されないように十分注意して、自分自身を大切に、大切にして戴きたいと切に願います。

人は皆、自分の判断や考え、自分の意志で日々に自分の肉体を動かし、また、人生を営んでいるのではないですか?どなたも自分自身に問うてみて欲しいのですが、あなたは毎日、守護霊や守護神、 背後霊の言葉や命令でその通りに動いているのでしょうか?
だとすれば、あなたは人として何の尊厳も誇りも無い、単なる霊的奴隷というか、人間ロボットにすぎないのですネ?そんな生き方のいったいどこに、「人間的な成長」があると いうのでしょうか?
私たち人間は他人やある何者かの指示を受けて生きるべきでは ありません。お釈迦様が無くなられる時、アーナンダに「自灯明、法灯明」と教えられました。それは「自らを拠り所とせよ」「自分自身が頼りなんですよ!」ということなのです。
私たちはどんなに苦しくとも、それに負けないで、苦心惨澹(さんたん)しながら自己の創意工夫と不断の努力によって、なにごとも「苦労の花を咲かせる」ところに喜びもまた一入(ひとしお)のものが あるのであり、神はどこまでも人間に「努力することの尊さ」を教えられるものです。
上記の質問の意味が判然と致しませんが、私たちは普段、自分こそが一番頼りなのです。「己れを信じて」生きることです。自分の本体は神なのですから、いつも自分自身(自己の神)が自分を守っているのです。記紀の「大己貴命の國作り」条、「大己貴命の幸魂・奇魂との邂逅」(我れあるによりての故に…)の段をよくよく味わい、正しく理解して戴きたいですネ。

そしてもしも、自分自身(肉体と霊魂)が穢れた時には、本来の自分自身(直霊)の親神でもあり、霊魂の故郷 ( ふるさと ) である神界からの神気に触れ、魂を祓い清めて戴くのです。「魂の汚れ」 (穢れ)というものは単なる祓いでは清まりません。しかし、鎮魂力のある人が祓えば、必ず祓われます。

具体的には鎮魂法や帰神術によって正神界の神気によって穢れの一切を祓って戴くのです。一体、その何処に矛盾がありましょうか?(渡辺)

◎ 天照大御神の天岩戸隠れの神話で、天宇受賣命が神懸かり された事が記されていますが、それはつまり独りで神懸かりなさった という事ですか?
また、その際「お懸かりになった神様」はなんという神様であられたのでしょうか。というものです。

「神懸り」(帰神術)というものは神界から神霊を招き呼び、神と直接して神教を戴くことです。
そもそも「神に神が懸る」というのはおかしな話とは思いませんか。『古事記』に書かれている「神懸り」という文字は、神霊をお迎えする時にはこのようにするのだ…という古代人の習俗が示されているのであり、強いて言うならば、「八百万の神々の総意」を天宇受賣命が神懸り状態(意識の変容状態)に入って天照大御神にお伝えしたというわけです。それによって、天照大御神が天石屋戸からご出御になられたのですから、神懸りは大成功であったわけで、この場合、決して「天宇受賣命に何々の神が憑った…」などというものではありません。
そうした神話の読み方では我が国の古典は永遠に分からなくなります。

この『古事記』(天石屋戸条)は神意を冒涜したら、いかに恐ろしい結果を招来するかということ、「神律の厳しさ」が説かれているのです。

今、世間に五万と出回っている『古事記』に関する多くの解説書は、それぞれ個々人の勝手な解釈ばかりであり、『古事記』を何にも分からない者たちが書いているのですから、例えそれらの書を読んでも『古事記』が語る真実は決して分かりません。

『古事記』は当時の諸豪族たちが有していた帝紀や本辭を太安万侶卿が神懸りによっていちいち神界に質して、正しいもののみを一本にリンクしてまとめあげた書物なのですから、神懸りや霊學に精通しない者たちの、ただ単に言葉だけの解釈、字訓だけの理解では、その真意を読み誤りましょう。

『古事記』は宇宙の成り立ちや生命の神秘、クニの形成、神律といったものが説かれており、また、貴重な預言の書でもあるのですが、その密意や尊さが分かる者はおりません。(渡辺)

神道 日本人の生きる道(八)ー質疑応答編ー


神道  日本人の生きる道    (八)

ー 質疑応答編 ー

◎ 金神様という神様は怖いと聞きますが、そのような神様は本当にいらっしゃる のでしょうか?

☆ 川手文次郎さん(後の金光大神=金光教教祖)は金神の回座する方位を犯して家屋を普請したとして、金神の激しい怒りに触れ、金神の祟り<金神七殺>に打ちのめされ、大事な家畜までもが命を取られたというお人なのですが、その実意丁寧さが金神に認められ、厚い信頼を寄せられ、下葉の氏子から遂には金光大神にまで出世されたお方です。そして、 川手文次郎さんの御蔭により、それ以来、金神の祟りは無くなったと言われております。

神霊と言っても、正神と邪神の別があります。正神は人間たちの余程の無礼や不敬の無い限りは、決して「人間が畏れる」ような、恐ろしい神という御存在ではありません。また、ご神霊は大した用もないのに、自ら人間に近寄って色々と干渉してくる…等ということは決してありませんが、妖魅や邪霊というものは向こうの方から人間に近付いて来て、つまらぬことを思わせ、色々と不思議を見せたりして干渉するにいたるものです。     (渡辺)

◎ 霊現象(人影やラップ音など)が最近引っ越した家で起きています。霊視などをして お祓いしてくれる神社は無いでしょうか?

☆ その土地の産土神(氏神)社にお願いして祓って戴ければ、そうした霊現象は祓える筈です。
「そうしたことが起る」というのは、一家に正しい信仰が無いために起こります。引っ越しをする場合には、お世話になって来た先住所の土地の神さまにこれまでの御守護の感謝を申し上げ、引っ越しに至った事情を御報告申し上げることが、まず、第一に大切となります。

次には新住所地の産土神様に引っ越しして来た訳を話し、よくよく神にお願いすると共に、家屋の清め祓いをお願いすることである。そして人間や家具が引っ越す前に必ず、「神棚や仏壇を先に入れる」ことが大事です。神仏やご先祖様がたに先きに入っていただくのですヨ。こうしたことは常識中の常識なのですが、現代人はこうした大切な ことがまったく分かっていません。
さて、霊視などしなくとも、神への真心と強固な信念をもった、心の清らかな神職が御祭神に祈り、祓い戸四柱の神の昇・降神儀礼をして大麻と塩湯で祓えば必ずや祓われるものです。
それよりも大切なことは、これまでの生き方の誤りを深く反省して、人間生存の意義についてシッカリ考え直してみることが大切です。「人としての踏み行うべき道」を正しく歩んでいて、おかしな出来事には遭わないものなのです。
要は、自分たちがいつも神に生かされ生きているのだという真実に目覚め、忠・孝・敬神・崇祖の人たるの道さえ踏んでいけば何の心配も無き人生を送ることになるということです。    (渡辺)

◎毎週土曜日ぐらいに憑霊される。(?)除霊してくれる神社や寺を教えて欲しい。テナントビルで、オーナーが引っ越しの際1階にあったお地蔵様を お祓いして取り除いたらしい。それからの話とのこと。

☆ お地蔵さまがあったということは、そこに死者の御霊様が存在した ということです。お祓いしたら解決するなどということはありません。御霊さまは救い上げなくてはならないのです(慰霊・供養が大切)。しかし、なにも畏 ( おそ ) れず、真心をもってそのお地蔵様にお茶湯やミカンの一個なりともおあげして、定期的にお線香をあげて、 自分が知っているお念仏やお題目をお上げするなどしてこちらの誠意を示せば、そうした変な障りなどといったものはきれいに無くなります。
なにごとにも「強い信念」と誠意(まごころ)ある祭祀(お尽くし)こそが神霊にも死者の御霊(みたま)にも通じる道であるということを知って戴きたいものです。私たちは常日頃から「生きる」ということの真の意味をシッカリと考えながら、これからの人生を誤りのない、豊かなものにして行く ことが大切でしょう。            (渡辺)

◎ 祖先の霊魂様が、日々のご供養、お祀りを喜んでいるのか不満に思っているのかが分かれば、より良いご供養ができると思いますが、霊感のない私たちにも分かる祖先からのサインはあるのでしょうか?。それとも、そのような事は気にせずお祈りを続ければいいのでしょうか?。
☆ お知らせ等はあります。御先祖様の喜びの念は必ず、慰霊・供養する者の心に映って来て、こころがウキウキしたり、なによりも安心感・安堵感というものが心に生まれてきます。また、何ら嬉しいということもないのに、 涙が次から次に溢れ出てくることが良くあるものです。
霊感というものは誰にも有るものです。ただし、世間によく言う「霊感のある人」などといった人はほとんどが邪霊の憑依に よるものであり、普通の人は産土神さまに守られておりますから、「あそこに幽霊が立って居る」などといった病的な、地をはうような低い憑依霊による霊感などは無いと思いますし、また、その方が人間として正常なのです。 (渡辺)

◎ 先祖が早く浄化し、より高い所に行けるようにするために、心掛ける点、もしくはお祈りの方法があればお教えください。

☆ 親・先祖さまの慰霊・供養というものは、先ず第一に大切なことは自分たちの生命の源である「親・先祖さま」をいつも心から想うということ、心から感謝するということが大切に なって来ます。
次には、私たちが常々心正しく、清らかな生き方を心がけるということです。

親先祖と子孫とは切っても切れない絆で結ばれており、丁度 「コインの裏表」のようなものですから、まずもって自分たちが日々の生き方を正し、人間としての正しい生き方にシッカリ目覚めることが必要です。自分たちの清めもなにもしないでおいて、「お行・先祖供養」などといってあせりまわっても、それはまったく本末転倒した行いです。

「己れの清め」無くして、「先祖の清め」などは決して無いものと知るべきです。これはとても大切な点です。要は「人はどう生きるべきか」といった「人間生存の意義」を、シッカリと学ぶことが大切です。人は誰しも「生かされて、生きている者」なのですから、その生命の源に対する畏敬と感謝の念を片時も忘れない生き方というものが大切なのです。分かって戴けましたでしょうか?     (渡辺)