「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録3


〈兆(きざ)しを知るはそれ神か〉

予兆(兆し)とは見えない世界からの知らせ・伝達であり、神功皇后さまは「よく未然(未来)のことを知悉しておられた」と記紀にあるが、古代人が大自然から神の教えを学び取り、よく気配を察することが出来たのは神や大自然に対して謙虚だったからである。季節の訪れ(おとない)は目には見えないけれど、残暑厳しい中にもいつの間にか次第に秋が深まっている。そして、実はその中にもう、すでに確実に冬将軍が忍び寄って来ているのである。こうした、四季(季節)の移ろいの中に微妙な変化の兆しを感じ、読み取る力が私たち人間には誰にも生まれながらに備わっているものである。

 

〈二宮金次郎と秋(あき)茄子(なす)の話〉

天保の飢饉の時、国中で餓死者は数十万に達したというのに、桜町領の三カ村では金次郎さんの先見の明と適切な指示によって三千三百七六俵の備蓄があったので、それを食い、足らないところは稗で補い、一人の餓死者も出さずに済んだという話は誰もが知る有名な話である。江戸の三大飢饉といえば享保・天明・天保(四年・五年)の飢饉を指すが、天保四年(一八三三)、金次郎四七歳の時のことである。この年は関東地方のみならず、全国的に凶作の年であった。天候不順で、夏の初めから幾日も雨が降り続いた。金次郎さんは前日の残った冷や飯に水をかけて食べるといった御方であったが、ある時、宇都宮で昼食のおかずに出された茄子を食べていると、初夏だというのに、秋茄子(なす)の味がした。驚いた金次郎さんは外に飛び出して、稲や道端の草を調べてみた。すると、根は普通であったが、どの稲も草も、葉の先が衰えていた。土の中は夏であるが、地上は既に秋になっていることが分かったのである。「これは只事ではない。これからの気候を予測すると、今年は陽気が薄く、陰気が盛んなのに違いない。これでは今年は農作物が実らないであろう。すぐ準備にかからないと百姓たちは飢饉に苦しむことになるだろう」と金次郎さんは直感した。「陰陽の理」といって、陰陽のめぐり合わせから気象を判断する手法を知っていた。
「今年は作物が実らないから、凶作への準備が必要である。ただちに地下に出来るもの、すなわち、芋、大根、かぶなどの飢饉に強い野菜の種をまくように。それと同時に一町歩に二反歩ずつの割合で冷害に強い稗(ひえ)を蒔くように。そして稗が実ったら、これを必ず蓄えておくのだ。そのようにすれば、どの家にも畑一反歩の年貢を免除する」と指示し、これを村人たちに実行させたことによって、飢饉による被害を見事に回避したのであった。
一体、「転ばぬ先の杖」とか「後悔先に立たず」とはどんな教訓であるのか。人はいつも「まさか」「この位」などといった甘さが生命を失い、一家や国家を途端の危機状況に陥れるのである。「想定外」など、あろうことか。それは愚かな素人(しろうと)どもが口にするセリフである。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」というが、現代人は敵ばかりか、己のことすらも知らず、まったく傲慢の極にあり、猿以下に成り果てたのである。大自然(神)や親・先祖の御霊との関係が切れているが故に、神の手紙も読めず、迫り来る危機にも鈍感そのものであり、外の気配がまったく読めなくなってしまった。

「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録2


〈神の手紙(みこころ)を読む〉

先月(八月)二九日の午後のことであります。神前で横になっていた時、いつの間にか眠ってしまったらしく、風呂場はもとより、ありとあらゆるところの蛇口から水が激しい勢いで流れ出ており、家の中は大洪水といった有様で、その水流で押し流されそうになる、といった大変な水の恐怖に襲われました。ハッとして目覚め、未だ恐怖も冷めやらぬ中、今日、博多から新幹線で帰阪途中にある筈の某夫人に「とにかく、水に注意するように」と電話したところ、「今、姫路を通過中」であるとのことであった。そして、今月4日、5日になって、彼女はその神のご警告の意味を驚きと共に知ることになる。台風一二号による記録的な豪雨が紀伊を襲い、そのために甚大な被害を蒙ったことを、テレビのニュースで見たからであります。あの三月一一日の大震災の悪夢が再び蘇って来たかの如き感があります。水の破壊力のもの凄さ…。それはそのまま、大自然の、「神の怒り」そのものであります。今、地球上のあらゆるものが崩壊し始めました。
失意の中で立ち直れずにいた私は、未だに神が人類の罪をお許しになってはいないということを知って、愕然としました。神への深いお詫びと反省無くして、真の復興など決して有り得ないということを改めて思い知った。
今、自分がこの世にこうして生きているのは一体、誰の御蔭なのか。自分の生命を此の世に生み出し、これまで手塩にかけて育て育んで下さった大恩ある親に対してさえも、不義理ばかりして来たのである。現代日本人はその生き方の中から、「親の面倒を見る」という大切な心を失ってしまったのである。親・先祖の御霊を大切にしない者が、此の世で自分たちだけは幸せに暮らせるなどという事は断じてないということを今の人たちは知らないのだろうか。
神によって生かされ生きるこの身でありながら、「人間さま」は生命の源である聖なるもの(神や親・先祖の御霊)に対する畏敬の念を喪失し、人主義に堕してすっかり傲慢に成り果ててしまいました。どうにも救いようのない人間たち。神々は人類の愚かさに対して「これでもわからぬか」と強い警告を発し、お気付けをしておられるのだが、それさえも誰一人気づかないとは、これまた何としたことであろうか。こうした「神の知らせ」(神からの手紙)は誰にでも発送されている筈なのだが、霊性が麻痺した人間たちは一向にそれに気付かないのである。

「神道がめざすもの」〈3.11以降の世界の状況〉講演録 平成23年9月8日


一 はじめに

神職の皆様方にはいつも斯道のためにご尽力され、まことに御苦労に存じます。

さて、講話や講演となると、大抵は要領よく、当たり障りの無い、どこでも言われるような最大公約数的なことを話すのが一般的でありますが、私はそのような面白みのない、無駄なことは致しません。第一、それは御神霊・御英霊に対しても、また皆様方に対しても最大の無礼であります。
自分自身の考えや意見を言わずして、皆、ありきたりの他人の意見ばかりを口にしてお茶を濁して、そんなものが一体何のためになるというのでしょうか。一期一会という言葉が御座いますが、誰にとっても二度とは無い、かけがえの無い、この生命(いのち)の時間を無駄にしてしまっては、神々やご先祖様方に対しても大変申し訳ないことです。
特に世界は今、あらゆる面で崩壊の兆しが見えており、のっぴきならない大きな時代の転換期を迎えております。これからがまさに、日本が世界に対して大きな役割(人類が真に生きるべき道を明らかにするという使命)を果たすべき時が来たと実感致しております。世界の滅亡を真に救えるのは、何よりも神霊の実在を説き、生命(いのち)を畏敬する生き方(教え)を実践する日本の神道しかありません。従って、皆さま方、神職一人一人の責務は真に重大であるという訳であります。
ということで、今日は、神道研究者として、また神道信仰に生きて来た者の一人として、神道が抱える課題やその目指す道について私なりの心情を吐露させて戴き、いささかでも専門神職の方々にお役に立てれ・・と願っております。

神道は天地悠久の大道であり、あまりにも霊妙且つ深遠であるために、神道が包括するその全容というものは人がどんなに言葉を尽して「これこれこうである」と語ったとしても、それはただ単に神道の一面を述べたに過ぎず、その全容や本質部分というものは両手に掬(すく)った水が指の間から直ぐに漏れ落ちて行くように、決して掴み得ないものであり、また決して語り尽せるというものではないと思います。今日はそれを十分承知の上で、このまたとない機会に御神霊・御英霊の御加護とお導きを請いつつ、本日のテーマについてお互いにジックリと考えて見たいと思います。

二 今、人類の生き方が問われている

私たちは近代化と共に、日本人として、人(霊止)として無くしてはならないとてつもない大切なもの(日本人としての気高い霊性の輝き)を失ってしまったという感が強くあります。今日は、日本人
の霊魂(タマ=霊性)の働きが一体どんなものであったかを見直し、考え直してみたいと思います。
今、私たち日本人のみならず、地球上に生きる人間の、人類の生き方そのものが大きく問われております。人類のこれまでの生き方に対する大精算が行われ、あらゆるものが崩壊の一途にあります。日本だけに限って言えば、三月十一日の東北関東大震災や福島原発事故はいったい何を私たちに語り伝えようとしているのでしようか。
結論を先取りして端的に申しますと、私たち(人類)が「神を見失った」ということであり、「神意に反しては一日たりとも生きて行けないのだ」ということであります。先祖以来、大自然のはたらきに神の存在を感得し、「自然は神なり」としてあらゆるものの中に生命の息吹を感じ、讃え、神と共なる生活をして来た私たち日本人です。山には山の神が、海にはわだつみの神が、そして樹齢数百年もの樹木には注連縄を張り巡らして「これは御神木」であるとして聖別し、大切にしてきました。 その私たち日本人が、太平洋プレートやフィリピン・プレート、ユーラシア・プレートなど幾つものプレート上にある日本列島であることを知りながら、火山大国・地震大国日本であることを承知しながら、活断層の上に平気で五四基もの原子力発電所を建設し、緑なす山や森、河、美しい海、母なる大地を放射能で汚して来たのです。清浄を尊び、穢れを忌み避けて来たはずの日本人が、これに対して何とも思わなくなってしまったのですから、これは「神への冒涜」以外のなにものでもありません。日本人の霊性が麻痺したのだとしか言いようがありません。

「真の幸せの道」を求めて   人はなぜ病むのか 2


3. 如何にすべきか
      原因は「親の生き方」にある

 一体「人はどのように生きるべきなのか」「どう生きるのが本当に正しい生き方なのか」「人としての踏み行うべき道」と言うものを知らずしては、バランスも調和もあったものではありません。自分たちが「親」を大切にしないで「子」はどこで「生命の大切さ」を学ぶのでしょうか?…。

 明治以降、欧米列強に負けないよう、それに追いつき追い越せとばかりに我が国は急速に「近代化」を推し進め、西洋の目新しい文化を盛んに取り入れ模倣すると同時に、彼らの科学合理主義・唯物主義・個人主義思想までほとんど無批判に受け入れきたのであり、戦後は一層その傾向に拍車がかかったと言えましょう。その為にそれまで大切にしていた先祖以来の麗しい生活習慣や伝統、文化という物をいつの間にやらスッカリ反故にしてしまいました。
 勤勉実直な日本人は戦後の物不足と精神的虚脱、廃墟と化した町から必死に立ち上がり、汗水垂らして働き続け、努力に努力を重ね今日見るような豊かな物質的繁栄を築いて参りましたが、と同時にふと気がついてまわりを見渡してみると、従来「東洋の君子国」とも言われ、世界の道徳的模範であった「神州清潔の民」はその生きるべき「道」を見失い、民族の気高い精神と道義心は何処かへ忘れ去り、国も町も村も家庭もその強固な生命の絆はズタズタに断たれ個々バラバラに解体され、全く行き場を失ってしまいました。
「隣は何をする人ぞ」というごとく、人々は個々バラバラで互いに無関心・無干渉を良しとし、地域共同体の絆はどんどん解体されていき、その社会の価値の中心であり人々を結びつけていた神社の神々と氏子関係は次第に弱体化し、人々はもはや共通の同じ物語を紡げる喜びを失い、誰とも〈真に心をかよわす〉ということが出来なくなり、ために誰もが〈精神的に不安定な状況〉に置かれていると言えましょう。
 
 人心の荒廃ぶりはすさまじく、人々はすっかり人間性を喪失し、「神を畏れ生命を畏敬する心」を無くしてしまい、己の生命をこの世に生み出し育んでくれたどんなに感謝してもなお余りある「生命の源」である自分の親・先祖の御霊さま方や御英霊をないがしろにして平気な人間ばっかりになりつつあります。この世には金・物や己の学歴・地位よりも大切なものがあるのだということが、分からなくなってしまいました。この頃は「世のため人のために」と言った生き方をする人が少なくなり、他人や社会・この国がどうなろうとかまわない、「自分さえ良ければいい」といった「吾良し」のエゴの塊のような人間が増えてきました。それと呼応するかのように、現代社会は「ストレス社会」とも言われるように〈精神を病む〉人々が非常に多くなってきました。

 見えない神仏や、人間死後の世界などはまるで信ぜず、「自分が今在る」のは神仏のお蔭、親・先祖のお蔭、社会のお蔭であると言うことに全く思い至らず、すべては自分一人の才能・努力によるものだと思い誤っているその〈自己中心的な生き方〉をする親こそが、その家の先祖から反省を求められているのだとも言えるのです。
 原因は発病したその子供にあるのでなく、実は〈親・先祖を常々心から偲び供養する優しい心〉を持たない自己中心的生き方を続ける両親にあるのです。死者の御魂がしきりに気付いて欲しいと訴えかけているのは、子供でなく、その親に対してなのです。

 4. おわりに  「鎮守の杜」の復権

私たちの遠い先祖がその瑞々しい豊かな霊性と感性、叡智で残してくれた『古事記』神話や古典を宮司さんや神主さん方と共に紐解き、今こそもう一度、日本人のアイデンティティを、その誇りと自信を、強い絆を取り戻しましょう。そして、身の回りの知人・友人や子や孫達に自信を持って「人間はどう生きるべきなのか」「どのように生きるのが本当に正しいのか」をシッカリ伝えていきましょう。

 神社は地域社会のネットワーク作りに強い力を持っております。私たちの幸せのもと、価値の中心が鎮守の杜なのですから、神社を中心にちょっとした挨拶や言葉がけを大切にし、人々の和をより一層大きく広げていこうではありませんか。
身の回りの人達が一人で悩んで社会を騒がすような邪教や悪徳宗教教にだまされ取り込まれることのないように、〈自分は一人ではない〉のだということを誰もが信じられるような、お互いに心から助け合える強固な地域社会の絆〈関係〉を神社を中心に取り戻しましょう。
 私たちのこの肉体は時間の経過と共に年々生理的に年を取っていきますが、内に宿る精神・心は年を取りませんし、また老いることもありません。
心はいつまでも青年時代の若々しさを保ち、輝いて生きていこうではありませんか。どんな方でも生命ある限り、神に生かされている限りはこの世に果たすべき使命・務めがあるわけですからともども斯界の発展のために頑張りましょう。

 私たちはとにかく肉体だけをすべてと思い、現世中心の物の見方や考え方をしがちですが、この現象界にだけに捕らわれた人生観・世界観を改め、霊的実相世界をも含めて「世界」なのであると言うことを認識する必要がありましょう。この肉体が滅んでも生き続ける不滅の霊魂の存在することを知って、死後決して「ああしたかった、こうすべきだった」と様々な欲念や思いを残し、苦しみ嘆き悲しみ、焦り、戸惑い、悔悟の念に苦しみもがいて、子孫や血縁者に取りすがって困らせることのないよう、日々なんとしても悔いのない人生を送りたいものだと思います。

「真の幸せの道」を求めて


人はなぜ病むのか

平成十二年六月三日 神社総代会 講話

1.はじめに

 環境破壊、政治の貧困、経済の破綻、宗教・教育の堕落、悪質詐欺、法曹関係者の犯罪の急増、警察、・自衛隊の不祥事、忌まわしい凶悪犯罪の頻発、悪質外国人の横行、広がる麻薬汚染、悪質極まりないいじめ、少年犯罪の多発、家庭崩壊…などなど、内憂外患のまことに憂慮すべき深刻な今日の社会状況はここに改めて述べるまでもございません。

 戦後の日本社会は「親が子供を説得できない」という、大人が日本人としての誇りと自信、〈どう生きることが正しいことのか〉という生きるべき「道」を見失ってしまい、誰もが「拠り所」を求めて探し回っている時代と言うことが出来ましょう。
 つい先日も五月の連休に十七才の少年によるバス・ハイジャックや動機無き殺人事件が発生し、社会に衝撃を与えました。
入院先の精神病院から一時外泊の許可を得て、出てきたその日の犯行であったという。「優等生であった」という少年達が何故、このような犯罪を起こすのでしょうか?。大人しい良い子であった子供達がどうして家庭内暴力を振るうようになるのでしょうか、「精神を病む」に至のでしょうか?…。本日はこの点について皆様と共に考えてみたいと思います。

 2.人はなぜ病むのか
      精神病は死者からのメッセージ

 記紀などの古典を見ますと、たとえば第十代崇神天皇の御代に疫病が流行り、国民の大半が死に絶える事態に至ったがそれは大物主神の神気(かみのけ)・祟りであった。また、允恭天皇(『日本書紀』五年秋七月条)に己丑(十四日)に地震があったが、その原因は反正天皇の御魂の怒り荒びによるもであった。天皇の殯宮に供奉しなければならい筈の「殯宮大夫玉田宿禰」が不埒にも殯の任務を放棄し、他所で男女を集えて祝宴を催していたために天皇の御魂が怒り荒ぶるに至ったのだと記している。

 また、「古記」によれば長谷天皇(雄略天皇、一説には景行天皇とも)が崩じた際に、殯宮に遷して七日七夜の間「酒食」を奉らなかったために天皇の御魂が怒り「荒びたまいき」とあり、その御霊のために諸国に遊び部・比自支和気を捜し求めた記しております。
 これらによっても、古代から〈御魂を鎮め和す〉ということが如何に大切な事であるかが分かって頂けるとこと思います。
 一昔前までは「お天道さんが見て御座る」「ご先祖さんに顔向けが出来ない」「それでお前の道が立つか」などといった言葉が如実に示しているように、私たちは〈見えざる神や仏、ご先祖様の存在〉を自明の事として信じて疑わず、誰もが日々の生活の中で神仏・死者即ち〈親先祖の御魂と向き合って暮らしていた〉ものでありました。
 四季折々に、つまり春秋の彼岸やお盆・年忌の時ばかりで無く、日々地元の氏神様や親・先祖のご恩を片時も忘れることなく、それは誰もが人として当たり前のこととして心からの〈感謝の生活〉に明け暮れしていたのです。
 そこには遠い遠い先祖からの【接続の生】というか、しっかりとした【生命の連続】【生命の継承】がありました。このように先祖(死者の御魂)と子孫との関係が正しくある限り、人の道を踏み外すような余程のことでも無いかぎり、死んでから迷うというような御魂もいなければ〈先祖が警告する(霊の憑依)〉などということも無かったのです。このことを皆様、心に留めておいて頂けたらとおもいます。
 
 如何なる民族もその民族固有の神話、伝統的精神と独自性を、民族の誇りを失い、帰一すべきその「中心」を失ってしまったら、糸の切れた凧のように果てしなく暴走を始め、しまいには滅亡するしかありません。
 この太陽系宇宙においては惑星は太陽を中心に自転公転していることで、その調和・バランスが保たれております。中心たる太陽との目に見えない繋がり(絆・関係)があればこそ、世界は崩壊せずに秩序を保っているのであり、国においても家においても同様でありましよう。
 皆さも良くご存じのように、記紀「天石屋条」において天照大御神が岩屋戸に籠もられたことによって常夜往くこととなり、あらゆる災いが満ち満ちて世界はまさに崩壊の寸前までに至りました。
 何事においてもこのバランスをとること、個と全体の統一・調和が大切と申します。心と身体のバランスを欠いた時には人は心身の〈病に罹る〉のであります。バランス調和と保つには、一体〈どうあることが正しい状態であるのか〉を知っていなければなりません。

 樹木は太陽の光熱や炭酸ガスばかりでなく、目に見えない地面の下の根からの水分や栄養の吸収あってこそ天地の間にスックと聳え立っていることが出来るものであります。この「根」と「幹」と「枝」のバランス(調和)と申しますか、繋がりあってこそ樹木は生命を保ち得、未来永劫にわたって繁茂できるわけでございませんか。一家の中心とも言うべき、また、生命の元・根とも言うべき親・先祖の御魂と断絶してしまっていては、私たちの生命も日々の生活もただちに枯渇していくかありません。
 私たちが常々、親・先祖や血の繋がる近親者の御魂を《心から偲び、慰霊供養する優しい思いやりの心》忘れて去っていては、自分が死んだと未だに自覚出来ない死者、いつまでまでもこの世に様々な思いを残して彷徨し続ける、いわゆる悟り無き〈未だ成仏できていない御魂〉は浮かばれず、救われる機会なきため、その〈堪え難い苦しみ〉を血縁者のものに何とかして分かってもらおうと必死に訴えてくるものです。それが近代医学が「精神病」と称しているものの主な原因となっていることが非常に多いのだと言うことを私たちは知るべきだと思います。 つまり、「精神病」は病気でないのであり肉体の病でない以上は単に薬や注射では治らないということ、親が死者の霊魂を真心込めて慰霊しご供養していけば必ず治るのだということなのであります。