神道  日本人の生きる道(九)  ー質疑応答編2ー

私の個人的な疑問で皆さんにも聞いて頂きたい事をお話します。

◎ 至霊・直霊を「頂いている」「賜っている」と言いますが、そうするとそれは自分とはまた別の存在で、自分自身とは言えないと いうことでしょうか?

決して別の存在というものではありません。本当の自分自身、本来の自分なのです。不可視の霊魂のことは頭で如何に考えても決して分かるものではありません。
一霊(直霊)と四魂、肉体とは普段、ピッタリと別れ難く結びついて一体化しており、そのため、一般人にはどれが直霊、どれが四魂、どれが魄(はく)などと、分けて解することは不可能ですが、霊學の修行者にはこれがハッキリと分かる ものです。

◎ 幽の祓いと、我が霊・我が体、の話は違う次元の話でしょうか?
幽の祓いを受けて祓われるという事と、「他神ありてこれを護るにあらず」という事は矛盾するのではないかと疑問に思いました。

事の大小といった、違う次元の話ですね。なにも矛盾しないと思います。誰でも子供の時、「自分のことは自分でしなさい」と親から教わります。ところが、自分でもどうにもならない、己れの身に余ることが起きた時には、親に助けてもらったりするものです。

世間の人は神や佛というものは「外にのみある」と錯覚し、かたくなに思い込んでおり、己(おのれ)の身の内に生まれ乍らに神授の霊魂(産霊神の分け霊)が宿っているということを全く知りません。
だから、外に守護霊や守護神が居るなどと思い込み、そしてそうした ものが自分たちを守っているのだとスッカリ錯覚しているのです。まったくもって無知の極にあるというべきでしょう。

私たちは誰であっても「神の子である」ということをしっかり自覚し、もっと「自分の尊さ」に目覚めて、どこまでも己を大切にし、巷のおかしな宗教などに騙(だま)されないように、穢(けが)されないように十分注意して、自分自身を大切に、大切にして戴きたいと切に願います。

人は皆、自分の判断や考え、自分の意志で日々に自分の肉体を動かし、また、人生を営んでいるのではないですか?どなたも自分自身に問うてみて欲しいのですが、あなたは毎日、守護霊や守護神、 背後霊の言葉や命令でその通りに動いているのでしょうか?
だとすれば、あなたは人として何の尊厳も誇りも無い、単なる霊的奴隷というか、人間ロボットにすぎないのですネ?そんな生き方のいったいどこに、「人間的な成長」があると いうのでしょうか?
私たち人間は他人やある何者かの指示を受けて生きるべきでは ありません。お釈迦様が無くなられる時、アーナンダに「自灯明、法灯明」と教えられました。それは「自らを拠り所とせよ」「自分自身が頼りなんですよ!」ということなのです。
私たちはどんなに苦しくとも、それに負けないで、苦心惨澹(さんたん)しながら自己の創意工夫と不断の努力によって、なにごとも「苦労の花を咲かせる」ところに喜びもまた一入(ひとしお)のものが あるのであり、神はどこまでも人間に「努力することの尊さ」を教えられるものです。
上記の質問の意味が判然と致しませんが、私たちは普段、自分こそが一番頼りなのです。「己れを信じて」生きることです。自分の本体は神なのですから、いつも自分自身(自己の神)が自分を守っているのです。記紀の「大己貴命の國作り」条、「大己貴命の幸魂・奇魂との邂逅」(我れあるによりての故に…)の段をよくよく味わい、正しく理解して戴きたいですネ。

そしてもしも、自分自身(肉体と霊魂)が穢れた時には、本来の自分自身(直霊)の親神でもあり、霊魂の故郷 ( ふるさと ) である神界からの神気に触れ、魂を祓い清めて戴くのです。「魂の汚れ」 (穢れ)というものは単なる祓いでは清まりません。しかし、鎮魂力のある人が祓えば、必ず祓われます。

具体的には鎮魂法や帰神術によって正神界の神気によって穢れの一切を祓って戴くのです。一体、その何処に矛盾がありましょうか?(渡辺)

◎ 天照大御神の天岩戸隠れの神話で、天宇受賣命が神懸かり された事が記されていますが、それはつまり独りで神懸かりなさった という事ですか?
また、その際「お懸かりになった神様」はなんという神様であられたのでしょうか。というものです。

「神懸り」(帰神術)というものは神界から神霊を招き呼び、神と直接して神教を戴くことです。
そもそも「神に神が懸る」というのはおかしな話とは思いませんか。『古事記』に書かれている「神懸り」という文字は、神霊をお迎えする時にはこのようにするのだ…という古代人の習俗が示されているのであり、強いて言うならば、「八百万の神々の総意」を天宇受賣命が神懸り状態(意識の変容状態)に入って天照大御神にお伝えしたというわけです。それによって、天照大御神が天石屋戸からご出御になられたのですから、神懸りは大成功であったわけで、この場合、決して「天宇受賣命に何々の神が憑った…」などというものではありません。
そうした神話の読み方では我が国の古典は永遠に分からなくなります。

この『古事記』(天石屋戸条)は神意を冒涜したら、いかに恐ろしい結果を招来するかということ、「神律の厳しさ」が説かれているのです。

今、世間に五万と出回っている『古事記』に関する多くの解説書は、それぞれ個々人の勝手な解釈ばかりであり、『古事記』を何にも分からない者たちが書いているのですから、例えそれらの書を読んでも『古事記』が語る真実は決して分かりません。

『古事記』は当時の諸豪族たちが有していた帝紀や本辭を太安万侶卿が神懸りによっていちいち神界に質して、正しいもののみを一本にリンクしてまとめあげた書物なのですから、神懸りや霊學に精通しない者たちの、ただ単に言葉だけの解釈、字訓だけの理解では、その真意を読み誤りましょう。

『古事記』は宇宙の成り立ちや生命の神秘、クニの形成、神律といったものが説かれており、また、貴重な預言の書でもあるのですが、その密意や尊さが分かる者はおりません。(渡辺)

神道 日本人の生きる道(八)ー質疑応答編ー

神道  日本人の生きる道    (八)

ー 質疑応答編 ー

◎ 金神様という神様は怖いと聞きますが、そのような神様は本当にいらっしゃる のでしょうか?

☆ 川手文次郎さん(後の金光大神=金光教教祖)は金神の回座する方位を犯して家屋を普請したとして、金神の激しい怒りに触れ、金神の祟り<金神七殺>に打ちのめされ、大事な家畜までもが命を取られたというお人なのですが、その実意丁寧さが金神に認められ、厚い信頼を寄せられ、下葉の氏子から遂には金光大神にまで出世されたお方です。そして、 川手文次郎さんの御蔭により、それ以来、金神の祟りは無くなったと言われております。

神霊と言っても、正神と邪神の別があります。正神は人間たちの余程の無礼や不敬の無い限りは、決して「人間が畏れる」ような、恐ろしい神という御存在ではありません。また、ご神霊は大した用もないのに、自ら人間に近寄って色々と干渉してくる…等ということは決してありませんが、妖魅や邪霊というものは向こうの方から人間に近付いて来て、つまらぬことを思わせ、色々と不思議を見せたりして干渉するにいたるものです。     (渡辺)

◎ 霊現象(人影やラップ音など)が最近引っ越した家で起きています。霊視などをして お祓いしてくれる神社は無いでしょうか?

☆ その土地の産土神(氏神)社にお願いして祓って戴ければ、そうした霊現象は祓える筈です。
「そうしたことが起る」というのは、一家に正しい信仰が無いために起こります。引っ越しをする場合には、お世話になって来た先住所の土地の神さまにこれまでの御守護の感謝を申し上げ、引っ越しに至った事情を御報告申し上げることが、まず、第一に大切となります。

次には新住所地の産土神様に引っ越しして来た訳を話し、よくよく神にお願いすると共に、家屋の清め祓いをお願いすることである。そして人間や家具が引っ越す前に必ず、「神棚や仏壇を先に入れる」ことが大事です。神仏やご先祖様がたに先きに入っていただくのですヨ。こうしたことは常識中の常識なのですが、現代人はこうした大切な ことがまったく分かっていません。
さて、霊視などしなくとも、神への真心と強固な信念をもった、心の清らかな神職が御祭神に祈り、祓い戸四柱の神の昇・降神儀礼をして大麻と塩湯で祓えば必ずや祓われるものです。
それよりも大切なことは、これまでの生き方の誤りを深く反省して、人間生存の意義についてシッカリ考え直してみることが大切です。「人としての踏み行うべき道」を正しく歩んでいて、おかしな出来事には遭わないものなのです。
要は、自分たちがいつも神に生かされ生きているのだという真実に目覚め、忠・孝・敬神・崇祖の人たるの道さえ踏んでいけば何の心配も無き人生を送ることになるということです。    (渡辺)

◎毎週土曜日ぐらいに憑霊される。(?)除霊してくれる神社や寺を教えて欲しい。テナントビルで、オーナーが引っ越しの際1階にあったお地蔵様を お祓いして取り除いたらしい。それからの話とのこと。

☆ お地蔵さまがあったということは、そこに死者の御霊様が存在した ということです。お祓いしたら解決するなどということはありません。御霊さまは救い上げなくてはならないのです(慰霊・供養が大切)。しかし、なにも畏 ( おそ ) れず、真心をもってそのお地蔵様にお茶湯やミカンの一個なりともおあげして、定期的にお線香をあげて、 自分が知っているお念仏やお題目をお上げするなどしてこちらの誠意を示せば、そうした変な障りなどといったものはきれいに無くなります。
なにごとにも「強い信念」と誠意(まごころ)ある祭祀(お尽くし)こそが神霊にも死者の御霊(みたま)にも通じる道であるということを知って戴きたいものです。私たちは常日頃から「生きる」ということの真の意味をシッカリと考えながら、これからの人生を誤りのない、豊かなものにして行く ことが大切でしょう。            (渡辺)

◎ 祖先の霊魂様が、日々のご供養、お祀りを喜んでいるのか不満に思っているのかが分かれば、より良いご供養ができると思いますが、霊感のない私たちにも分かる祖先からのサインはあるのでしょうか?。それとも、そのような事は気にせずお祈りを続ければいいのでしょうか?。
☆ お知らせ等はあります。御先祖様の喜びの念は必ず、慰霊・供養する者の心に映って来て、こころがウキウキしたり、なによりも安心感・安堵感というものが心に生まれてきます。また、何ら嬉しいということもないのに、 涙が次から次に溢れ出てくることが良くあるものです。
霊感というものは誰にも有るものです。ただし、世間によく言う「霊感のある人」などといった人はほとんどが邪霊の憑依に よるものであり、普通の人は産土神さまに守られておりますから、「あそこに幽霊が立って居る」などといった病的な、地をはうような低い憑依霊による霊感などは無いと思いますし、また、その方が人間として正常なのです。 (渡辺)

◎ 先祖が早く浄化し、より高い所に行けるようにするために、心掛ける点、もしくはお祈りの方法があればお教えください。

☆ 親・先祖さまの慰霊・供養というものは、先ず第一に大切なことは自分たちの生命の源である「親・先祖さま」をいつも心から想うということ、心から感謝するということが大切に なって来ます。
次には、私たちが常々心正しく、清らかな生き方を心がけるということです。

親先祖と子孫とは切っても切れない絆で結ばれており、丁度 「コインの裏表」のようなものですから、まずもって自分たちが日々の生き方を正し、人間としての正しい生き方にシッカリ目覚めることが必要です。自分たちの清めもなにもしないでおいて、「お行・先祖供養」などといってあせりまわっても、それはまったく本末転倒した行いです。

「己れの清め」無くして、「先祖の清め」などは決して無いものと知るべきです。これはとても大切な点です。要は「人はどう生きるべきか」といった「人間生存の意義」を、シッカリと学ぶことが大切です。人は誰しも「生かされて、生きている者」なのですから、その生命の源に対する畏敬と感謝の念を片時も忘れない生き方というものが大切なのです。分かって戴けましたでしょうか?     (渡辺)

心が清らかであれば産土神が守ってくださる

以下は、自己の身体の変調や心境の変化が果して霊的なものに起因するか否かを判別できる人の場合を対象として、己が身を守るための防護方法を少しばかりお話致しましょう。

いつも他の人との距離を1.5メートル以上に保ち、それ以上は近付かないこと。
ややこしい問題を抱えた人とどうしても会わなければならない時は、前もって産土神にお届けして御守りをお願いしてから会うように心掛ける。
場の見えないところに供物(くもつ)(米・塩・水)やお茶湯などを用意し、場の見えないところに置く。

決して恐れてはならない。(恐れるものは来たる)

先の事 暗く考え 歩くなよ
たださんぜんと光り見つめて

先の事 心配すれば 神の息
神の恵みを 己が断ち切る

密閉された部屋で会うことは避ける。自分の体の周りを霊縛し、バリヤーを張って悪しきものを身に寄せ付けないようにする。

その際、向き合って相対する時は必ず正中線を外して対すること。肩や腕の力を抜き、緊張しないように心掛け、また、構えないこと。

臍下丹田に気を充実させ、出来るだけリラックスすること。

相手に取り込まれないようにするためには、対者の集中力を削(そ)ぐ工夫をする。例えば、対者との間に動くもの(金魚鉢)を置いたり、扇子を開いてパチッと音をさせて閉じるなど…(音の祓い)。

相手に気付かれないように自分の吐く息で左右左と祓ったり、喫煙する人は煙草の煙で祓う。

相手に見られぬようにテーブルの下で、片手あるいは指で左右左と祓う。

出来るだけまともに相手を見ないようにし、また口を開かないことが望ましい。

この間、常に心中に神を祈念することを忘れてはならない。「祓い給へ。きよめたまえ!」

会っている時間も、10分以上を越えないことである。

会話中にのどの奥がかすれてきたり、涸れたりして声が出にくくなった時は、それ以上は止めてその座を辞すること。「それ以上話すと穢れるぞ!」と自分の霊魂から教えられている訳。

人間の想いや意念というものは大したものではないが、これに妖魅・邪霊がその界に属する動物霊(主に荒魂―奇魂)を使役して加勢して、人間に障(さわ)りを為(な)すものである。しかし、心が清らかであれば産土神が守って下さる

霊が普通、肉体に入り込むことはないが半肉半霊の動物霊の場合はある。決して姿を見せない。人に姿を見られると霊力が衰えるためである。山岳信仰などのある山には必ず居て、山で遭難したり死んだりするのは、これら山に住む動物霊(半肉半霊あるいは幽体のみ)の仕業(しわざ)である。

「穢れ」の祓い方について①

災難を 逃るる道は 只一つ
神に任せて 罪祓うこと

祓いの原点は霊力にあり…で、祓(はらへ)詞(ことば)や大祓祝詞は神界の神則であるから、真心込めて祓い戸の神々を祈り、修祓行事(大痲・塩湯・切痲・御酒・御米・清め砂など)をすればそれなりに祓われはするが、「スッカリ」「きれいに」という訳にはいかない。要は、その人の鎮魂力のありなしが物を言うのである。

神道では死穢(しえ) を特に忌むが、しかし間違ってはならないのは、決して死者が穢れているとか、死者を忌み嫌うというのではない。私たち人間に恐るべき死や災厄をもたらすところの強烈な「厄」を避けようとして、忌み籠り、また、塩で清めようとするのであり、これは理屈でも何でもない自然(おのずから)に湧き出る日本人の魂の証しである。

人間が犯した罪穢れには贖(あがな)いが必要なため、そうした人を助けようとしたり、その人の救済を願って神に祈願をしたりすれば、その時は自分が穢れを「受ける」というか、贖わされるのは致し方ない。一にも二にもその人の日頃の修行による。「行」というものが必要とされる所以である。

神前で祈願する時に最も鎮魂力が必要とされる。また、最も穢れを受ける場面でもある。穢れを受けないよう、また忌み負けしないためには、日頃睡眠を十分に取り、また、シッカリ食べて、体力をつけ、体調をいつも万全の状態にしておくことが大切です。

己れの身の内に生まれながらに授かった神授の直霊(なおひのみたま・産霊神の分け魂)を尊んで片時も離さないこと、神から離れないことです。

・吾が心 すがすがしいと 唱へかし
心清まり 身も清まらむ

 

「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び 3

 

「邪霊・妖魅」というものについて③

Ⅶ. 魔にやられた時(魔に入られる・魔に魅入られる)の現象

① たいていは普段でない言動、その人らしくない言動があり、よく観察していれば、誰にも「おかしいな」と気付く。当然のことながら、本人は「魔」にやられていることにまったく気付かない。魔物はその人の弱点を徹底して突いて来るのである。

② 普段していることがすべて「ちぐはぐだらけ」になり、その人らしくない言動を取る。

③ とんでもない、とっぴなことを言ったりしたりして、身内や周囲の人を驚かせる。

④ 少しずつ心境に変化が出て、正しいことが悪く見え、悪いことが正しく見えてくる。正しい判断が狂わされるので、おかしなことばかりをする。

⑤ 頭がボケてしまい、何かにつけてその人らしくない、おかしな言動、不注意な言動ばかりをするようになり、物事を任せられないようになる。何かにつけて人がしてほしいことはせずに、してほしくないこと、余計なことばかりをするようになる。

とにかく、人の気持ちを逆なでするようなことばかりを平気でしでかすようになる。

⑥ 反省心が乏しくなり、素直さがなくなる。まるで常識というものが欠如して、女性は婦人としての節度や慎み心がなくなってしまう。非常な気短かになったり、ヒステリー症状を起こし、些細なことに対しても狂人の如くになって、急に大声を出したり、泣いたり…と、手が付けられなくなる。

このように大抵、邪霊は女性の背後から近づき、その後頭部に悪霊気を絶えず吹きかけて婦人としての慎み心を失わせ、ヒステリーを起こさせ、男性はといえば睾丸を抜かれて気力喪失し、勇気に乏しくなり、男女とも便通にまでも支障をきたすようになる。人格に変動を来たし、廃人同様の現象を顕して来る。

要するに、霊的に言えば、気が振られて「直霊(なおひのみたま)が曲霊(まがつひ)に変化してしまった」のである。霊的思考力を亡失してしまい、内的盲目者の如くになるのである。

何の力もないのに調子に乗って、己の力量を買い被り、自分の力量以上のことをしでかすようになる。

これらはすべて、その人の信仰が中途半端で徹底しておらず、その人の油断や慢心、慣れ、欲心、猜疑心、心の隙を魔物に狙われ、つけ入られたのである。

これを防ぐには心に隙や油断をしなければよいのであるが、普通人にはどうにも手の施しようがない。

⑦ 特に、神が世に出る時や、正義が世に顕われようとする時には、このようにして必ず、魔界の魔物たちがさんざん邪魔(妨害)をしてくる。

⑧ 妖魅邪霊どもは本人が志操堅固でどうしても崩せないことを知ると、今度はその人の家族や身内、仲間らを操って、嫌気を起こさせようとするのが常套手段。

一度目をつけたら、家の中までも侵入して来て、夫婦喧嘩を起こさせたり、物事に失敗させたり…と、徹底して「一家の攪乱」をはかるものである。(離婚の原因の多くはこれ)
家族をごちゃごちゃに揉ませ、搔き回して、ついには病人や狂人を出すに至る。親子の喧嘩、夫婦離婚などは大抵、こうしたつまらぬ邪霊共にやられていることが多い。勿論、救いを求めての無縁仏の境涯に墜ちた先祖霊たちの強いメッセージの場合も同様の現象が起こることがある。

⑨ 次第に、背後で操る霊物(憑霊)の容貌(顔つき)や動作を取るようになり、憑依霊と似てくる。不良性を帯びたつまらぬ邪霊どもに支配され、踊らされているのである。

⑩ このような場合、尊い神の御光に浴する以外に、助かる道は無い。

これによっても、神仏に仕える者にとって、常日頃の真剣な「修行」というものが何故に必要であるかが判然としよう。この道理が分かるものは今、殆んどいない。

〈正神は不思議や奇跡を以て人を導かない。正法に不思議なく、徒に奇を好むなかれ。〉