神道 日本人の生きる道(八)ー質疑応答編ー


神道  日本人の生きる道    (八)

ー 質疑応答編 ー

◎ 金神様という神様は怖いと聞きますが、そのような神様は本当にいらっしゃる のでしょうか?

☆ 川手文次郎さん(後の金光大神=金光教教祖)は金神の回座する方位を犯して家屋を普請したとして、金神の激しい怒りに触れ、金神の祟り<金神七殺>に打ちのめされ、大事な家畜までもが命を取られたというお人なのですが、その実意丁寧さが金神に認められ、厚い信頼を寄せられ、下葉の氏子から遂には金光大神にまで出世されたお方です。そして、 川手文次郎さんの御蔭により、それ以来、金神の祟りは無くなったと言われております。

神霊と言っても、正神と邪神の別があります。正神は人間たちの余程の無礼や不敬の無い限りは、決して「人間が畏れる」ような、恐ろしい神という御存在ではありません。また、ご神霊は大した用もないのに、自ら人間に近寄って色々と干渉してくる…等ということは決してありませんが、妖魅や邪霊というものは向こうの方から人間に近付いて来て、つまらぬことを思わせ、色々と不思議を見せたりして干渉するにいたるものです。     (渡辺)

◎ 霊現象(人影やラップ音など)が最近引っ越した家で起きています。霊視などをして お祓いしてくれる神社は無いでしょうか?

☆ その土地の産土神(氏神)社にお願いして祓って戴ければ、そうした霊現象は祓える筈です。
「そうしたことが起る」というのは、一家に正しい信仰が無いために起こります。引っ越しをする場合には、お世話になって来た先住所の土地の神さまにこれまでの御守護の感謝を申し上げ、引っ越しに至った事情を御報告申し上げることが、まず、第一に大切となります。

次には新住所地の産土神様に引っ越しして来た訳を話し、よくよく神にお願いすると共に、家屋の清め祓いをお願いすることである。そして人間や家具が引っ越す前に必ず、「神棚や仏壇を先に入れる」ことが大事です。神仏やご先祖様がたに先きに入っていただくのですヨ。こうしたことは常識中の常識なのですが、現代人はこうした大切な ことがまったく分かっていません。
さて、霊視などしなくとも、神への真心と強固な信念をもった、心の清らかな神職が御祭神に祈り、祓い戸四柱の神の昇・降神儀礼をして大麻と塩湯で祓えば必ずや祓われるものです。
それよりも大切なことは、これまでの生き方の誤りを深く反省して、人間生存の意義についてシッカリ考え直してみることが大切です。「人としての踏み行うべき道」を正しく歩んでいて、おかしな出来事には遭わないものなのです。
要は、自分たちがいつも神に生かされ生きているのだという真実に目覚め、忠・孝・敬神・崇祖の人たるの道さえ踏んでいけば何の心配も無き人生を送ることになるということです。    (渡辺)

◎毎週土曜日ぐらいに憑霊される。(?)除霊してくれる神社や寺を教えて欲しい。テナントビルで、オーナーが引っ越しの際1階にあったお地蔵様を お祓いして取り除いたらしい。それからの話とのこと。

☆ お地蔵さまがあったということは、そこに死者の御霊様が存在した ということです。お祓いしたら解決するなどということはありません。御霊さまは救い上げなくてはならないのです(慰霊・供養が大切)。しかし、なにも畏 ( おそ ) れず、真心をもってそのお地蔵様にお茶湯やミカンの一個なりともおあげして、定期的にお線香をあげて、 自分が知っているお念仏やお題目をお上げするなどしてこちらの誠意を示せば、そうした変な障りなどといったものはきれいに無くなります。
なにごとにも「強い信念」と誠意(まごころ)ある祭祀(お尽くし)こそが神霊にも死者の御霊(みたま)にも通じる道であるということを知って戴きたいものです。私たちは常日頃から「生きる」ということの真の意味をシッカリと考えながら、これからの人生を誤りのない、豊かなものにして行く ことが大切でしょう。            (渡辺)

◎ 祖先の霊魂様が、日々のご供養、お祀りを喜んでいるのか不満に思っているのかが分かれば、より良いご供養ができると思いますが、霊感のない私たちにも分かる祖先からのサインはあるのでしょうか?。それとも、そのような事は気にせずお祈りを続ければいいのでしょうか?。
☆ お知らせ等はあります。御先祖様の喜びの念は必ず、慰霊・供養する者の心に映って来て、こころがウキウキしたり、なによりも安心感・安堵感というものが心に生まれてきます。また、何ら嬉しいということもないのに、 涙が次から次に溢れ出てくることが良くあるものです。
霊感というものは誰にも有るものです。ただし、世間によく言う「霊感のある人」などといった人はほとんどが邪霊の憑依に よるものであり、普通の人は産土神さまに守られておりますから、「あそこに幽霊が立って居る」などといった病的な、地をはうような低い憑依霊による霊感などは無いと思いますし、また、その方が人間として正常なのです。 (渡辺)

◎ 先祖が早く浄化し、より高い所に行けるようにするために、心掛ける点、もしくはお祈りの方法があればお教えください。

☆ 親・先祖さまの慰霊・供養というものは、先ず第一に大切なことは自分たちの生命の源である「親・先祖さま」をいつも心から想うということ、心から感謝するということが大切に なって来ます。
次には、私たちが常々心正しく、清らかな生き方を心がけるということです。

親先祖と子孫とは切っても切れない絆で結ばれており、丁度 「コインの裏表」のようなものですから、まずもって自分たちが日々の生き方を正し、人間としての正しい生き方にシッカリ目覚めることが必要です。自分たちの清めもなにもしないでおいて、「お行・先祖供養」などといってあせりまわっても、それはまったく本末転倒した行いです。

「己れの清め」無くして、「先祖の清め」などは決して無いものと知るべきです。これはとても大切な点です。要は「人はどう生きるべきか」といった「人間生存の意義」を、シッカリと学ぶことが大切です。人は誰しも「生かされて、生きている者」なのですから、その生命の源に対する畏敬と感謝の念を片時も忘れない生き方というものが大切なのです。分かって戴けましたでしょうか?     (渡辺)

心が清らかであれば産土神が守ってくださる


以下は、自己の身体の変調や心境の変化が果して霊的なものに起因するか否かを判別できる人の場合を対象として、己が身を守るための防護方法を少しばかりお話致しましょう。

いつも他の人との距離を1.5メートル以上に保ち、それ以上は近付かないこと。
ややこしい問題を抱えた人とどうしても会わなければならない時は、前もって産土神にお届けして御守りをお願いしてから会うように心掛ける。
場の見えないところに供物(くもつ)(米・塩・水)やお茶湯などを用意し、場の見えないところに置く。

決して恐れてはならない。(恐れるものは来たる)

先の事 暗く考え 歩くなよ
たださんぜんと光り見つめて

先の事 心配すれば 神の息
神の恵みを 己が断ち切る

密閉された部屋で会うことは避ける。自分の体の周りを霊縛し、バリヤーを張って悪しきものを身に寄せ付けないようにする。

その際、向き合って相対する時は必ず正中線を外して対すること。肩や腕の力を抜き、緊張しないように心掛け、また、構えないこと。

臍下丹田に気を充実させ、出来るだけリラックスすること。

相手に取り込まれないようにするためには、対者の集中力を削(そ)ぐ工夫をする。例えば、対者との間に動くもの(金魚鉢)を置いたり、扇子を開いてパチッと音をさせて閉じるなど…(音の祓い)。

相手に気付かれないように自分の吐く息で左右左と祓ったり、喫煙する人は煙草の煙で祓う。

相手に見られぬようにテーブルの下で、片手あるいは指で左右左と祓う。

出来るだけまともに相手を見ないようにし、また口を開かないことが望ましい。

この間、常に心中に神を祈念することを忘れてはならない。「祓い給へ。きよめたまえ!」

会っている時間も、10分以上を越えないことである。

会話中にのどの奥がかすれてきたり、涸れたりして声が出にくくなった時は、それ以上は止めてその座を辞すること。「それ以上話すと穢れるぞ!」と自分の霊魂から教えられている訳。

人間の想いや意念というものは大したものではないが、これに妖魅・邪霊がその界に属する動物霊(主に荒魂―奇魂)を使役して加勢して、人間に障(さわ)りを為(な)すものである。しかし、心が清らかであれば産土神が守って下さる

霊が普通、肉体に入り込むことはないが半肉半霊の動物霊の場合はある。決して姿を見せない。人に姿を見られると霊力が衰えるためである。山岳信仰などのある山には必ず居て、山で遭難したり死んだりするのは、これら山に住む動物霊(半肉半霊あるいは幽体のみ)の仕業(しわざ)である。

「穢れ」の祓い方について①


災難を 逃るる道は 只一つ
神に任せて 罪祓うこと

祓いの原点は霊力にあり…で、祓(はらへ)詞(ことば)や大祓祝詞は神界の神則であるから、真心込めて祓い戸の神々を祈り、修祓行事(大痲・塩湯・切痲・御酒・御米・清め砂など)をすればそれなりに祓われはするが、「スッカリ」「きれいに」という訳にはいかない。要は、その人の鎮魂力のありなしが物を言うのである。

神道では死穢(しえ) を特に忌むが、しかし間違ってはならないのは、決して死者が穢れているとか、死者を忌み嫌うというのではない。私たち人間に恐るべき死や災厄をもたらすところの強烈な「厄」を避けようとして、忌み籠り、また、塩で清めようとするのであり、これは理屈でも何でもない自然(おのずから)に湧き出る日本人の魂の証しである。

人間が犯した罪穢れには贖(あがな)いが必要なため、そうした人を助けようとしたり、その人の救済を願って神に祈願をしたりすれば、その時は自分が穢れを「受ける」というか、贖わされるのは致し方ない。一にも二にもその人の日頃の修行による。「行」というものが必要とされる所以である。

神前で祈願する時に最も鎮魂力が必要とされる。また、最も穢れを受ける場面でもある。穢れを受けないよう、また忌み負けしないためには、日頃睡眠を十分に取り、また、シッカリ食べて、体力をつけ、体調をいつも万全の状態にしておくことが大切です。

己れの身の内に生まれながらに授かった神授の直霊(なおひのみたま・産霊神の分け魂)を尊んで片時も離さないこと、神から離れないことです。

・吾が心 すがすがしいと 唱へかし
心清まり 身も清まらむ

 

「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び 3


 

「邪霊・妖魅」というものについて③

Ⅶ. 魔にやられた時(魔に入られる・魔に魅入られる)の現象

① たいていは普段でない言動、その人らしくない言動があり、よく観察していれば、誰にも「おかしいな」と気付く。当然のことながら、本人は「魔」にやられていることにまったく気付かない。魔物はその人の弱点を徹底して突いて来るのである。

② 普段していることがすべて「ちぐはぐだらけ」になり、その人らしくない言動を取る。

③ とんでもない、とっぴなことを言ったりしたりして、身内や周囲の人を驚かせる。

④ 少しずつ心境に変化が出て、正しいことが悪く見え、悪いことが正しく見えてくる。正しい判断が狂わされるので、おかしなことばかりをする。

⑤ 頭がボケてしまい、何かにつけてその人らしくない、おかしな言動、不注意な言動ばかりをするようになり、物事を任せられないようになる。何かにつけて人がしてほしいことはせずに、してほしくないこと、余計なことばかりをするようになる。

とにかく、人の気持ちを逆なでするようなことばかりを平気でしでかすようになる。

⑥ 反省心が乏しくなり、素直さがなくなる。まるで常識というものが欠如して、女性は婦人としての節度や慎み心がなくなってしまう。非常な気短かになったり、ヒステリー症状を起こし、些細なことに対しても狂人の如くになって、急に大声を出したり、泣いたり…と、手が付けられなくなる。

このように大抵、邪霊は女性の背後から近づき、その後頭部に悪霊気を絶えず吹きかけて婦人としての慎み心を失わせ、ヒステリーを起こさせ、男性はといえば睾丸を抜かれて気力喪失し、勇気に乏しくなり、男女とも便通にまでも支障をきたすようになる。人格に変動を来たし、廃人同様の現象を顕して来る。

要するに、霊的に言えば、気が振られて「直霊(なおひのみたま)が曲霊(まがつひ)に変化してしまった」のである。霊的思考力を亡失してしまい、内的盲目者の如くになるのである。

何の力もないのに調子に乗って、己の力量を買い被り、自分の力量以上のことをしでかすようになる。

これらはすべて、その人の信仰が中途半端で徹底しておらず、その人の油断や慢心、慣れ、欲心、猜疑心、心の隙を魔物に狙われ、つけ入られたのである。

これを防ぐには心に隙や油断をしなければよいのであるが、普通人にはどうにも手の施しようがない。

⑦ 特に、神が世に出る時や、正義が世に顕われようとする時には、このようにして必ず、魔界の魔物たちがさんざん邪魔(妨害)をしてくる。

⑧ 妖魅邪霊どもは本人が志操堅固でどうしても崩せないことを知ると、今度はその人の家族や身内、仲間らを操って、嫌気を起こさせようとするのが常套手段。

一度目をつけたら、家の中までも侵入して来て、夫婦喧嘩を起こさせたり、物事に失敗させたり…と、徹底して「一家の攪乱」をはかるものである。(離婚の原因の多くはこれ)
家族をごちゃごちゃに揉ませ、搔き回して、ついには病人や狂人を出すに至る。親子の喧嘩、夫婦離婚などは大抵、こうしたつまらぬ邪霊共にやられていることが多い。勿論、救いを求めての無縁仏の境涯に墜ちた先祖霊たちの強いメッセージの場合も同様の現象が起こることがある。

⑨ 次第に、背後で操る霊物(憑霊)の容貌(顔つき)や動作を取るようになり、憑依霊と似てくる。不良性を帯びたつまらぬ邪霊どもに支配され、踊らされているのである。

⑩ このような場合、尊い神の御光に浴する以外に、助かる道は無い。

これによっても、神仏に仕える者にとって、常日頃の真剣な「修行」というものが何故に必要であるかが判然としよう。この道理が分かるものは今、殆んどいない。

〈正神は不思議や奇跡を以て人を導かない。正法に不思議なく、徒に奇を好むなかれ。〉

「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び 2


「邪霊・妖魅」というものについて②

Ⅲ.除霊ではなく、浄霊が大切

例えば放射性物質の「除染」など決して出来るものではなく、今、政府がやっていることはといえば、それはただ単に「移染」にしか過ぎないのです。
これと同様に、病気や不幸、災難というものはこれ等は皆、親先祖から自分に至る、罪の贖(あがな)いの為なのであり、この贖いを済まさない内は、単なる除霊では例え一時的に取り除かれたかのように錯覚するような現象が起こるかもしれないが、必ず、別の形で前よりも一層強く贖いをされられることになるから、むしろ危険であるとさえ言える。

「行者の末路は哀れ」という言葉があるように、世の多くの霊能者たちは早逝するか、不遇な晩年を送るか、精神異常をきたし、邪霊たちの復讐を受けるのである。

Ⅳ.邪霊たちの常套手段

その人の慣れや油断、心の隙(すき)を狙って、邪霊たちがその人の魂を誘惑し、次から次へとつまらぬことばかりを想わせ、考えさせて、心を陰に陰にと誘う。
どうしたものか、それまで信仰していた神仏や信じていた人を疑ったり、迷い心を起こさせ、不信、猜疑心を芽生えさせ、その人を神から遠ざけよう、遠ざけようとするのである。

邪霊に目を付けられると、信仰不徹底な者はひとたまりもなく、皆、きれいにやられてしまう。

本人は自分が「邪霊にやられている」ことにさえ、まったく気付かない。そうした時はこれまで「良い」と思っていたことが「悪く」想われ、「悪い」と思うことが「良く」見えるから不思議である。

Ⅴ.『神の道』を繰り返し拝読して澄み渡る神心になるしかない。
(心を清め澄ませる「行」が如何に大切なことであるか!)
この世で起こることは皆、その種をまいた結果を刈り取っているのであり、人の身に起こることは皆、自業自得である。先祖の清めといっても、自分自身の邪気を清めもしないで、なんで先祖が清められたり、周囲の業報を浄めたり出来るでしょうか。

人は皆、自ら発した、また人間がこれまで長い間に作ってき来た、邪気邪念や妖気妖念、怨念や復讐の念など、諸々の穢れた念や言動に復讐されているのです。

心からこれまでの過ぎ越し方を神にお詫びし続け、これからは真人間になることをお誓いし、忠・孝・敬神・崇祖の道を心底実行して行く以外に許されることはない。
火や水の行、その他の行は「心を澄ます」行のほんの手助けに過ぎないということを身にしみて感じることが大切です。

Ⅵ.死の刹那(臨終)の時の一念が大切

人は誰でも、此の世を去る時には執着や未練、想いを何ら残すことなく、往くことがとても大切です。生きている内から、人間の肉体に属する物欲や金銭欲、名誉欲などといったものにあれこれ心奪われて、汚れ果てぬように、また、自分中心主義でなく、何事であっても他人(ひと)様第一に生き、神中心主義で考え行動するようでなければなりません。

『神の教え』を繰り返し拝読して、心の曇りを取り除き、神の愛というものがどんなものであるかを少しは真面目に考え、神心を修得して、生まれながらの清らかな魂と身と心にならせて戴くことです。内なる心の光が輝き出てくるようにならなければなりません。

生きている内から神仏様の道を歩ませて頂き、徳を積ませて頂いて、世のため人のために生き、道義に篤い、情の深い人間としてひと回りもふた回りも人間的に大きく成長しなければなりません。

あれこれ、此の世の事に深く囚われて、べたべた未練を残すようでは、人生の本義を正しく全うした人ではないということ。

私たちは産土大神さまやご先祖様方から「よくやってくれた!」と感謝で迎えられるような御霊にならなければいけないと思います。

人は一旦、霊籍が決まると、そこから自由に動くことは出来ません。
此の世に生きておればこそ、自由にあちこち動けるし、色んな人と出会い、学ぶことも出来ます。それらは全て此の世に生きておればこそ…の話である。

自分の心次第では、どんなに学ぶことも出来、向上も出来、人生の本義を知ることが出来ます。すべては自分次第…というわけです。
〈吾が心で吾が魂を助けるが此の世に生まれし甲斐というもの。〉