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Ⅱ.本田霊学

 

本田親徳(ほんだちかあつ、通称・九郎)は文政五(1822)年一月十三日、士族で典医であった本田主蔵の長男として鹿児島藩加世田(現・鹿児島県南さつま市)に生まれた。天性俊敏にして幼少より藩校で漢学を修め、剣道に長じていた。十七、十八歳の頃、武者修行のため京に上り、天保十(1839)年頃には水戸に遊学して当時天下に令名高き碩学・会沢正志斎の門に入った。そこで三年余り皇学・漢学など和漢の学を修め、最先端の科学・哲学をも学び、将来の学的基礎を固めた。

 古典について深く研鑽を積むにつれ、宇宙の森羅万象は霊的作用によるに違いなしとの考えに至り、古典の真義を理解するには自らが実際に神霊に直接して神の教えに基づくより他にないとの確信を持つようになった。
 この間、平田篤胤(天保十四年没)の私塾「気吹舎」にも出入りし、その晩年の学説を傍聴したとも伝えられる。それが事実であれば、篤胤の幽冥研究に関する講義も聞き知っていた筈である。後に本田は自著『難古事記』『古事記神理解』で篤胤の説を駁撃することになるのだが、それも篤胤の思想や学問によく通じていたからこそなし得たことなのであろう。

 本田親徳の青年時代は諸外国の船がわが国と通商条約を結ぼうと頻りに来航していた時期である。国論は分裂し、まさに世情騒然としていた。記紀古典に多く見られる事例の如く、真に神意の存するところを知ることができるならば、いかなる国難もたちどころに解決しよう。しかし、「神意を伺う」という尊貴な神懸りの神法は中古以来廃絶しており、国学者たちは理屈理論に明け暮れ、神霊に直接して神意を問うことができる者はいなかったのである。

 天保十四(1843)年、二十一歳の頃、会沢正志斎のもとを辞して京都藩邸にいた本田親徳は、京都伏見で狐憑きの七歳の子供が歌をよく詠むとの噂を耳にした。自らその狐憑きの子供を訪ねた本田が「お前は何か憑いていて巧い歌を詠むそうだが、どんな歌でも直ぐに詠むことができるか」と聞くと、子供は「どんな歌でも詠む」と答え、題を与えるようにと言った。
 本田が十月の冷たい雨に紅葉が打ち落とされている庭を指し、「この景色を詠んでみよ」と言うと、子供は直ちに筆を取り、「庭もせに散るさへ惜しきもみぢ葉を朽ちも果てよとふる時雨かな」と詠んで外に遊びに出てしまった。この憑霊現象を実見したことが契機となり、本田は霊的作用について深く研究する志を固めたものと思われる。

 その後、一切の世俗の名利を断ち、長らく途絶したままの「神霊と感合する道」を求め、命懸けの修行を開始したのである。本田は著書『難古事記』で次のように述べている。
 「此の神懸のこと本居平田を始め名だたる先生達も明らめ得られざりし故に、古事記伝、古史伝ともにその説々皆誤れり。親徳拾八歳皇史を拝読し、此の神法の今時に廃絶したるを慨嘆し、岩窟に求め草庵に尋ね、終に三拾五歳にして神懸三十六法あることを覚悟り、夫れより幽冥に正し現事に徴し、古事記日本紀の真奥を知り、古先達の説々悉く皆謬解たるを知り弁へたりき」と。

 安政三(1856)年頃には神懸りに三十六法あることを覚り、慶應三(1867)年頃には記紀等古典に基づく帰神(神懸り)の神法を確立したという。そして幽冥に正神界と邪神界の別あること、各々百八十一階級あること、憑依した霊に種類や上中下の等級・働きがあること、それらを判別する「審神者(さには)の法」、邪霊を縛るところの「霊縛法」などを明らかにし、日本古来の神懸りの神法を見事に体得・確立したのである。本田親徳が確立したこの霊学(鎮魂法・帰神術・太占)を後世「本田霊学」と呼んでいる。
 その後、一時郷里の鹿児島に帰ったらしく、明治三(1870)年、三島通庸の石峯神社再興創建に関する記事中、本田親徳の帰神によって不明であった御祭神の御名が明らかになったとの記述がある。明治六年頃には上京し、西郷隆盛の紹介で副島種臣と親交を持ち、師弟の縁を結んだ。副島邸で帰神を修したこともあり、副島の百十四項の発問に対し本田が幽斎の法によって回答した『真道問対』が成っている。

 明治十六(1883)年、元鹿児島藩士の奈良原繁が静岡県令(知事)になったのを機に同郷の誼もあって本田親徳を招聘し、二年余り講筵を開いて数多くの有志を指導している。明治十八年には『産土百首』『古事記神理解』『産土神徳講義』などの著作が成っている。明治二十一年、自己の御霊は静岡県岡部の神(みわ)神社に鎮まることを言い残し、翌二十二年、埼玉県川越の木村辰右衛門宅で逝去した。享年六十七歳であった。
 本田親徳の高弟に、月見里(やまなし)神社宮司の長澤雄楯(ながさわかつたて)がいる。大本の出口王仁三郎、神道天行居の友清歓真、三五教の中野与之助らが師事するなど近代の神道系宗教に影響を与えた人物であり、筆者が指導を受けた佐藤卿彦(さとうあきひこ)師もその門下である。本田の霊学について長澤翁は次のように語っている。

 「この霊学は維新前、薩摩の藩士本田親徳翁(通称九郎)によって儒佛渡来以降廃絶していた神懸の法則が再建された事によって興ったもので、全国を遊歴すること四十年、困苦慘憺竟に克く之を大成されたので今の世に神懸の法あるは翁の力である。(略)明治の世、神典学者で千古不抜の卓越の説あるは、この翁一人のみぢゃが惜い哉世に少しも知られていない」(『中外日報』昭和十一年四月九日付)

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