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こころ豊かな生き方2

Ⅲ.本物と偽物

寄り来る 低き霊魂を 見る者は
  心濁れる 不幸せの人

何か見えないものが「見える」「聞こえる」といっても、それは「正しい修行法」に基づいて身魂を磨き、自己の魂が発するところの真の霊的能力とはまったく異なり、実際は外部の低い霊物に憑依され、操られているのも知らずに、憑霊芝居を演じている程度に過ぎない。
 世間で騒ぎ立てる「霊能者」と称する者たちは、大抵これなのであり、本来行くべきところにも往けずにこの世をうろついている、地を這うところの極々低い人霊や動物霊といった霊物に、知らずに操られ、使役されているに過ぎないものである。
 皆様に知っておいて欲しいのだが、この世にも守るべき法律があるように、霊界にも定まった掟(神律)というものがある。この厳守すべき規則を破って、現界の人間に憑依してくる霊物などに決してろくなものはない。こうした霊物に限って、ありもしない事を言ったり、不思議や奇跡まがいのことをしては世間を驚かし、人や社会を弄び、魂を穢して行くものである。
「正法に不思議なく、いたずらに奇を好むなかれ!」とは、実に至言なり、と言うべきであろう。

 世に神や霊を語り、宗教や神道を口や筆にする者らのその殆どが、正しい霊学や審神者(さには)の法を全く知らない者ばかりであり、それらの説は、言って見ればただ単に観念の遊戯に等しく、まったく信ずるに足らぬものばかりである。
 正神から賜るところの真の霊覚というものと、極く低い霊の憑依による霊能(零能)とをすっかり混同しており、それらの正邪をハッキリと区別出来ないばかりか、逆に邪神界に取り込まれ、妖魅・邪霊の虜になり操られている輩ばかりである。
 こうした審神者(さには)の不在こそが、現代の社会混乱の大きな原因ともなっている。いわゆる本物と偽物の区別がまったく出来ないのである。

 Ⅳ.繋ぎゆく生命

見えないものを畏れ敬うという「畏敬の念」「信仰の心」「慎みの心」をスッカリ見失い、神佛や先祖の、そして社会の大きな恩恵を忘れ果て、ないがしろにして顧みないようになり、ために民族伝統の豊かな霊的感受性を喪失し、即ち不可視の神佛はもとより、亡き親・先祖など「死者からのまなざし」にまるで鈍感になってしまったのである。
 己れの生命の源である神佛や先祖の御霊(みたま)とその繋がりを断って、普段「吾よし」の我儘勝手な生き方ばかりしていて、子孫がその恩恵を受けられよう筈がない。人間を樹木に例えるならば、「親」が幹なら「先祖の御霊」は根であり、私たちは「枝・葉」ということになるであろう。
 私たち子孫が枝葉をより一層栄えさせ、花や実を豊かに実らせようと希求するならば、神佛への感謝はもとよりのこと、根や幹である己が親・先祖の御霊を心から偲び、真心込めて鎮め和し、慰霊供養し喜ばせてやまない、といった優しい心を、日々に忘れてはなるまい。

 遠い先祖から子孫へと、一貫して脈々と流れる生命の絆を切り裂き、そうしたうるわしい伝統的な生き方を失ってしまい、「根」や「幹」からフッと切れた、天地の滋養の補給を断った「枝」のみの生き方であっては、その樹木はついに枯死するより他にないこと、これまた自然の理というものである。己れのみか、子々孫々までの繁栄の道を断つことの罪や大なり、というべきであろう。
 こうした人として当然、且つ当たり前の行為は、決して宗教とは言わず、人として極々当たり前の常識なのであるが、今日その当たり前が全く分からなくなってきている。

 先祖先づ 助かりて後 吾が幸は
  吾が身に来ると 良く悟れかし  一五四三

 救われぬ 霊魂は人を 苦しめる
  悟りし霊魂は 人を助ける     八一一

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