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こころ豊かな生き方

こころ豊かな生き方
 Ⅰ.生かされ生きる

人は神より生れ、生かされて生きる存在であり、私たちの生命というものの根源的な特質は、存在世界の本質によって生み出され、また、神を中心として皆、他と繋がり合っているということを知るべきである。

この大自然は生命(いのち)あり生きているのであり、太陽も月も地球もすべて、神の道(生命の法則)によって存在し、生かされ、生きている一大生命体である。

古代人にとっては、生活圏にある山や杜(もり)、大地、川などは生命の源であり、生命あり生きているものであって、それを単に「物質・物」と見ることはなかった。

古代から、日本人はそこに生きとし生けるものを領(うしは)ぐところの神霊の厳在を霊的に感得して、四季折々に絶えず祭祀を行ってきた。

私たちの生まれ住む国、またこの郷土は単なる物ではなく、まさにまざまざと「生きている」生命体なのであり、今も昔も変わる事なく組織あり統一あり、調和ある生命体(神)なのだ。

そして私たちの身体は祖先の分身であり、幽政を管掌する鎮守の杜の神=産土(うぶすな)の神=氏神の生成力により、天地の神々の恵みによって生み出され受け継いできた生命なのだ。強いて言えば、日本人の日々の生活の根本は「生命の本源への畏敬」であったということが出来る。

まさに鎮守の杜の神(産土神)は、私たち産子・氏子の生命の母体であり、幸せの基、すべての価値の中心である。従って、土地の産土神(氏神)への報恩感謝のための村や町の祭りは、本来すべて共同体の祭りであり、決して今日見るような個人の祈りなどはなかった。

Ⅱ.こころの養い

私たちは、大切な自己の内面の魂磨き、即ち「心の清浄化」をこそ第一とすべきであるのに、金銭、物資や学歴、名誉、地位など、それこそ死後に持って往けない人間の外聞に属するものばかりを必死に掻き集めようとしている。

神の子として、人(ヒト=霊止)として、実に浅ましく、嘆かわしい限りである。

「艱難、汝を玉にす」「鉄は熱い内に打て」「可愛い子には旅させよ」「他人の釜の飯を食わせよ」、果ては「若い内の苦労は買ってでもせよ」などなど…。

昔の方というのは、なんと凄い事を仰っているのか。苦労なくして決して人は磨かれず、またその天授の本性が光り輝く…ということはないもの。苦労して泣いてみてこそ、はじめて人間というものが出来てくるものである。

自分の心を磨き清め、己れの身魂の癖を直していく事は、どんな教団や組織・団体に入らずとも、一人で出来る事である。

他人の言うことや、色んな組織・団体の立てた教えを、何の疑いもなく頭から丸飲み込みで信じ込む…というやり方は、一番簡単で楽なことだが、実はそれは自分の魂を悪魔に売り渡す行為にも等しい。

私達はどんなに大変であっても、人生の途上で遭遇する様々な出来事や経験・体験を通して、この世の中の仕組みや人生の意義というものを知り、一歩一歩、賢くならせて頂き、また強く成らせていただけるものである。

神霊が喜ばれる清浄心とは、如何なる時にも人と争わぬ心、怒らない、恨まない、妬まない、嫉まない、悔やまない、悲しまない、取り越し苦労や過ぎ越し苦労をしない心、こうした澄清なスガスガしい心を言う。浄き、明き、正しき、直き精神・心を養う事こそ大切である。

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