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神と人のあり方 23

吾が国の みたまの様が 目に見ゆる
もの少なきが 神の嘆きぞ

だから神々は、神とか佛とか無益な論争は止めにして、皆が心を一つに合わせて、有縁無縁の霊魂が一刻も早く救われるように祈れ、と強く教えられるのである。

仏も神も 姿形に 捉はれず
心合わして 霊魂を祈れ

以下の御神歌にはまさに神仏習合の精神が如実に顕れており、しかもこれを教えられるのが神々であってみれば、理屈を言う前にその神の御心の広さ・愛の深さを私たちは神習うべきであろう。

観音を 救ひの神と あがむれぱ
これすみのえの おん使ひなり

弥陀仏と 唱ふるもよし 住吉の
大神様と 唱ふるもよし

南無大悲 観世音菩薩の 姿こそ
われ浦安の 姿なりけり

観世音 救ひの仏 観世音
吾が浦安の 姿それなり

智恵深妙 勢至菩薩の 姿こそ
大山彦の 姿とも見る

阿弥陀仏 観音・勢至 皆共に
住の江様の 御姿なり

丸丸の 智恵は勢至の 智恵なるぞ
かたち言葉に 氏子迷ふな

姿なき 声を身にうけ 口に述べ
助くる人ぞ 菩薩なりけり

牟田家には神床も仏間もあったのであろう。多くの神々や佛(みほとけ)方が、いつも一家、一族の罪穢れを祓い浄め、守護しておられるのだと教えておられる。

諸々の み仏方と 神々が
此の家を浄め 守りておはす

まさに「心は神明の舎」であり、「み仏は遠き彼岸に坐しまさず、己が心の波に乗り来る」ものなのである。

み仏は 遠き彼岸に ましまさず
己が心の 波に乗り来る

み仏の 現れ給ふ 給はぬは
己が心の 澄む澄まぬにぞある

身の不浄 心の不浄 犯すなよ
神み仏の 慈悲を忘るな

神に祈り 仏に願へ 霊魂等の
助かるためと 心尽して

何事も 御任せなり 気は安く
観音導き やがて知るらむ

誠なる 救ひの神は 阿弥陀仏
唱へ言葉は 氏子任せぞ

有り難や 仏ともなり 神となり
救ひの悲願 成就せむとは

氏子叱る まこと姿は 不動どの
あら有り難や 親の慈悲なり

神の名や 神の位は なきものぞ
浮世の人の 呼び名にすぎぬ

神名であれ、神の位であれ、それらは此の世の人間があとから付けたものなのであって、神々御自身は そうしたことには何の関心さえ払ってはおられない。ところが人間というものはどうしようもないもので、他人からチヤホヤされると己の愚かさは忘れ果てて、袴の色や何級の上とか下とか、そういったものにとらわれてしまい、「神仕え」するということの、また「御仏に仕える」ということの本当の意味をまったく見失ってしまった今日である。

自分がお仕えする神や佛さまは、分かり易く例えて言えばお店のご主人であり、会社で言えば社長さんではないのか。そのご主人さまが今何を考えておられるか、果たして今満足しておられるのか、一体どうすればお喜びになるのか…と日夜心を砕き、たとえ一度なりとも尊いその御姿を見せていただきたい、一言なりともお声を聞かせていただきたい、御教えを頂戴したい…と心底願い、神の御心に、御仏の喜ばれる御心に例え一歩なりとも近付かせて戴きたいと、その為に必死に日夜の「行」を積み重ねる…というのが本当の「神仕え」であり「御仏に仕える」ということではないのか。
ご主人様が一体何を思っておられるのやら、そのお伺いの仕方さえ分からずに、日々の「潔斎」も「行」もせず平気で酒を飲み、日々たらふくご馳走を食べ、好き放題勝手をし、のんきに本や小説でも書いて、世の中が如何なる事態になろうとも、信者の浄財や寄付をあてにして、のんきに日々を暮らすなど…、それでも果たして神官か、それでも果たして僧侶と言えるのか、聖職者などと言えるのか、己が恥ずかしくはないのか…と、厳しく自己をこそ戒めるべきである。

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