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神と人のあり方 18 天皇観(帝の御座)

大やまと 吾が日高見の 国こそは
宇宙の始め もと開きたる国  

神開く 此の国こそは 神集ひ
神業をもて 神治めゆく国

このいはれ 醜草共が 汚したり
しばし洗はむ この神業をもて

先の大東亜戦争における敗戦によって、占領軍総司令部はまず第一にわが国体の変革、日本の歴史や宗教、伝統文化の改造を画策し、日本民族の誇りや自信を喪失させ骨抜きにせんと図った。彼等のもくろみが当初の予想以上の効果を齎(もたら)した事は、今日のわが国の有様を見ればまさに歴然としている。
誰でもよい、道行く人にこの国の成り立ちや天皇の御存在、各地域の神社の祭りとはそもそも何故にするのか、その本来の意義は?と尋ねてみられゝばよいのである。また、正月儀礼の一つ一つ、たとえば門松や鏡餅は何のためなのか、お雑煮は一体何のために食するのか等についてその意義を聞いて見られるとよい。日本人でありながら、こうした日本人としての最も本質的な事柄について、如何に無知であるかということが直ちに判明することと察しがつくからである。日本国民と生まれ出ていながら、自国の建国の由来を物語る神話や歴史、伝統、文化等について何ら知ることもなく、それらへの敬意や感謝の念をまるで持ち合わせず、それでいて、自分は立派な日本人であると思い込んでいる者ばかりに成り果ててしまった今日である。
あまつさえ一時期、心無き者等によって日本の神々や天皇までもが厳しい批判の対象とされたことは誰しも周知の通りであり、今更此処に述べるまでもない。

民草よ すめみまの御座を 軽んずな
尊きいはれ 身に秘めておけ

忠と言ふも 尊きいはれ 知らずして
定まるものに 非ざると知れ

御神霊は「すめみまの御座を軽んずな」と教えられるのであるが、此の御神歌に教える「尊きいはれ」とは一体どのように理解すればよいのであろうか。
天皇の御存在・その御本質について知るためには、まず第一に古典を紐解き、古典に学ぶべきであろう。『日本書紀』神代下、第九段、天孫降臨条(第一の一書)には次のように記されている。
皇孫に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(こうそん)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あまつち)と窮(きはま)り無(な)けむ」とのたまふ。
これは、高天原の主宰者である皇祖天照大御神が皇孫の降臨に際しての勅である。

また、同じく『日本書紀』の神代下・第九段(第二の一書)には、
「吾が児、此の寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るがごとくすべし。與(とも)に床を同くし殿(おほとの)を共にして、斎(いはいの)鏡とすべし」とのたまふ。
と記されている。この寶鏡は三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)であり、また天照大御神の御霊でもある。

すなわち、高天原世界の秩序の中心に立つ天照大御神の御活動のさまを神習い、大神より委任され祝福されたこの聖なる役割り・精神を、此の葦原中国において天皇が果たすべき使命を有しておられるのだということが判明する。神代の昔から天皇の地位は神定の尊いものであり、未来永劫に渡って変わることはないのだということを、先の御神歌は「尊きいはれ」と教えておられたのである。
同じく『日本書紀』巻第一九、欽明天皇十三年十月条には、仏教受容に関しての物部大連尾輿・中臣連鎌子らの次のような言葉が記されている。
「我が国家(みかど)の、天下(あめのした)に王(きみ)とましますは、恒に天地(あまつやしろ)社(くにつ)稷(やしろ)の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(わざ)とす。方に今改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまはば、恐るらくは国(くにつ)神(がみ)の怒を致したまはむ」とまうす。
天皇が天下を治しめすことの理由が何処にあるかが、これによっても判明するであろう。
即ち、天皇という御存在は、皇室の御祖先をはじめ、天地の神々を四季折々に絶えず祭り仕えまつるべきお立場にあり、いわば神主中の神主(大神主)という面をも有しておられることが分かるのである。このように日本古典を紐解き、偏見を振り祓って心素直に読んでいけば、わが国は神々によって聞かれた国であり、神々の神業によって神命のまにまに治めて行かれるという、まことに尊い国柄であるということが分かる。『古事記』によれば、その天地開闢の一番初めは次のような書き出しで始まる。
天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天(あめ)之(の)御中(みなか)主(ぬし)神。次に高御産(たかみむ)巣(す)日(び)神。次に神(かみ)産(む)巣(す)日(び)神。此の三柱の神は、並(みな)獨神(ひとりがみ)と成(な)り坐(ま)して、身を隠したまひき。
この両産巣日神は産霊神とも表記し、「むすこ・むすめ」や「苔むす」の「むす」とも通じ、ものを産み為す霊妙な働き、生成発展の根源的霊力を有する神であり、この両産霊神の対照的な二つの大きな御働き(分かり易く例えれば張力と圧力)を中心で結び合せ、調和せしめている(中心力)お働きの神様が天御中主神であり、此の御三神を「造化の御三神」と称えるのである。
神話が教えるように、此の自然界において、例えばプラスとマイナスという全く異なる、相反する性質を持ったもの同士を一点に結び付けることによって電流は流れるし、また、男と女、精子と卵子という全く異なるもの同志が愛し合い一つに結び合うことによって新しい生命が誕生するというように、相反する二つの働きをもつものを真に有意のものとするには、その中心にあって両者を結び合わせるところの「中心力」というものが必要不可欠なのである。
この天御中主神の「中心力」が別天つ神、神世七代の神々を通して、修理固成の委任を受けた伊邪那岐・伊邪那美二神へ受け継ぎ伝えられ、この二神から高天原統治の御委任を受けられた天照大御神へ、そして天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)を通して、この葦原中国の統治の御委任を受けられた歴代天皇へと脈々と続いているという事は、この上なく尊いことである。わが国が神代の昔から天つ神の神定めに基づき、神業によって治められているという由縁である。

 神開く 此の国こそは 神集ひ
神業をもて 神治めゆく国

皇上(かみ)の御座 しっかと護れ 国民よ
心浄らに おほらかにあれ

心浄く 帝の御座を 護れかし
やがては国の 光りさすらむ

すめみまの 帝をまもる 人は誰
神の選みし 氏子それなり

畏くも 帝の御座は はるかなり
如何なる不浄も 犯すすべなし

神護る 帝の御座は 神護る
吾が国民も よく護れかし

「帝の御座」というものは、決して他が取って代わることの出来ない神定のものであり、且つそれが如何に尊いものであるかということが記紀神話だけでなく、御神霊のこれ等の御神歌によっても分かるのである。
恐れ多いことであるが霊学的に見ても、天皇の霊魂は一般の人々とは異なり、最初からその霊魂の出所が異なるのであり、またその霊魂の大きさたるや、他とは比較にならぬほど大きなものである。こうしたことは霊学を修め得た者にしか分からぬ霊的真実なのである。
従来、こうしたことの分からない、心無き者等が功名心に走り、己れの野望や名誉心を満たすために、やれ「神の国」とか「天皇」とか「日の本」とか口角泡を飛ばして叫びまわり、挙げ句の果ては穢し汚してきたのだと神霊が厳しく糾弾しておられるのが次の御神歌である。


神を知らぬ 愚か者等が 御座近く
群れてみ国を 汚し果てけり

畏くも すめみまのみこと 御座あれば
如何にある共 国は濁らず

上澄めば 下の濁りは 自づから
消え去る如く 国は清まる

神の国 日の本などと 口の端に
かけて汚れし 吾が日の本ぢや

大御心を解することが出来ず、結局は「何と分からぬ者たちよ」と天皇を嘆かせお苦しめ申した事はまことに申し訳なき次第であり、神霊は「神人共におん許しあれ」と深く詫びておられるのが次の御神歌である。

 畏しや すめみまの帝の おん嘆き
神人共に おん許しあれ

御神歌を拝すると、神々はいつも天皇を御守りされると同時に、陛下と共にこの国の永久の安泰と国民の幸福を願っておられるということが分かるのである。

国鎮まり 民安かれと 祈るのが
大神様の 大悲願なり

この国の栄えは、国民の一人一人がこれらのことをよく理解し、「まこと心」に立ち返ることが出来るならば、また多くの迷い苦しむ霊魂が浄化され救済されて、真に喜びに変わるようになったなら、必ず成就され、ますます光り輝き、誰もが安心し喜び勇んで暮らせる世が招来されるのだと教えられる。

 民にまこと 霊魂に喜び あるならば
国の栄えは 限りなからむ  

いつの世も、上に立つものこそが一番に襟を正し、まこと心に改めなければならぬと御神霊は注意されるのである。ところが人間というものはどうしょうもなく愚かであるため、思わぬ地位に就き、権力というものを掴むと、己れの身の程を忘れ、いつの間にかお役の結構さに溺れて、ついつい道を踏み誤るに到るものである。其の者の心境の低さ、こころざしの低さは必ずや露呈するものである。


民草に まことを植えむ その為に
先ず司等が 改むる事

司等に まことがなくて 民草を
導くなどは 愚かしきこと

かけまくも あやにかしこき すめろぎの
ことおし計り 神がなげくぞ

すめみまの 帝の御座は 曇らねど
なほ晴れやらぬ 司人かな

天照らす 神代の昔 始めより
定まる事の しるし見せばや

日の本の 国の始めの 神事ぞ
神にそむきし しるし悟れよ

世は茲に 皆改まる 古への
神しろし召す 世はかへり来ぬ

心せよ 心よごすな すめみまの
帝の御座を 護る強者

世界の何処の国々の民であれ、自国や己れの祖先を誇りにし、尊ばぬ民族があろうか。私たちとて同じことである。私は何も特別のことを言っているのではない。私たちは神定の天皇を頂き、神開き神治め行くこの国に生まれ合わせたことを心から感謝し、誇りとすべきではないのだろうか。神々の御心を、少しは察して頂きたいものである。

 すめみまの 帝の御座は 底深く
龍宮城の 岩根と共ぞ(二〇四六)

いささかの 世の嵐など 此の御座を
動かす力 さらになきなり(二〇四七)

此の御座は 善神集ひ 護り居る
八重雲こめて 日夜わかたず(二〇四九)

(『日本神道の秘儀より』掲載)

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