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神と人のあり方 17

日本人の自然(神霊)観

 踏む土も 流るヽ水も 神の国
  神の姿と 先ずおろがめよ    

 行く雲も 流るヽ水も 出る月も
  神の姿に なきものはなし
    
 小泉八雲の見た日本は、一昔前までは大地を耕す御百姓さんもまた、若い船頭さんも船の舳先に立って手を合わせ、昇る朝日を無心に拝んでいた。あなたはそんな神々しい姿を見たことはあるだろうか。彼が出会った当時の日本の人々は誰も礼儀正しく正直で勤勉で清潔好きで、また子供たちを大切にし、みな生き生きと日々を感謝して暮らしている…と述べている。
 また、日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、昔初めて来日して京都の町を見た時、そのあまりの美しさに「私は今までこれほど美しい町を見たことがない。まるで夢をみているかのようだ」と本国の友人に書き送っている。西洋化を突き進んだ日本は、大切な何かをスッポリと落としてしまったのであり、未だにそれに気付いてはいないようだ。
 西欧近代自我・科学合理主義は自然というものを動物と二項対立させ区別し、それと切り離されてしまった自然はもはや単に法則的に把握される物質世界としてしか認識されず、人間にとっては克服されるべき、また実験観察の対象物でしかない。ところが西欧と違って東洋、それも日本人にとって自然は山川草本であれ、大八島国であれ、人間と同じく神の生みの子として認識され、従って両者は一つのものであって、人と自然はこれまで長の歳月、共に助け合い生きてきたとも言える。
 ところが現代の人々に「昔は草木がことごとく物言うことがあった」のだと言えば、きっと仰天するであろう。「草木も眠る丑三つの…」と言う言葉があるように、草木も寝たり起きたりしているのだ。つまり、私たち人間と同じように、草木も国土も魂を有し、生命を有する生きものなのである。
 例えば「佛性論」、すなわち「佛」になれる可能性(すべての人がなれるのか、特定の人にしかなれないのか)に関する問題は仏教の大テーマである。
 六朝時代の「如来蔵論」によれば「一切衆生 悉有仏性」(『涅槃経』)とあって、「衆生」つまり意識を持った存在(生物・動物のみ)が如来になれる素質・可能性があるのであって、無機物(石)などは佛にはなれないとする。これに対して道教では「道無所不在 在梯稗 在瓦甓」(道はあらざるところなし。梯(てい)稗(はい)にあり 瓦甓(がへき)にあり)とあり、即ち梯稗とは植物であり、瓦甓とは瓦・土石などの無機物のことであり、これらにも道は宿っているのだという。この二つの論を取り入れて荊渓湛然が『金錍論』を書き、「草木国土 悉皆成仏」(有機物も無機物もすべて彿になるのだ)とし、又これを明代の王陽陽明が取り入れて「草木土石 悉有良知」とした(「善人 不善人之師 不善人 善人之資」これは親鸞の悪人正機」の元になったといわれている)。翻って日本の古典には、先にも述べたように、磐石も草も樹木も土も山も海も国土も、すべて自然のありとあらゆるものは神から生まれた生命あるもの、即ち神の子であり、われわれ人間もまたその自然の一部であると記している。一例を挙げれば、『日本書紀』巻第二、神代下に「彼の地に、多に螢火の光(かがや)く神、及び繩聲(さばへな)す邪しき神有り。復(また)草木(ことごと)咸(く)に能く言語(ものいうこと)有(あり)り。」とあるように、草や木にさえもそれぞれ霊が宿り、生命を有しているばかりか、物を言い、人間をおびやかす存在でもあったというのである。
 
 私たちは常々「平和」とか「幸福」とか「共生」とか口にはするけれども、それは人間だけのエゴであってはならない。この地球上には人間だけが単独で生きているのではなく、自然の一部にしかすぎないのである。地球も一大生命体なら、その地球上のありとあらゆるものも全て生命を有しているのである。
 こうして見てくると一木一草といえども霊なるものであり、従って生命を持ち、物言う存在であったし、成仏もするということなのである。私たち日本人にとっては、自然は只単に生命を有するというだけでなく霊的存在でもあり、神でもあったということが分かるのである。たとえば『万葉集』には富士山について次のように詠んだ歌がある。

  日の本の大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる 不霊の高峰は 見れど  飽かずかも   (長歌・三一九)

 私たち日本人は今日のように、自然を「吾れと汝」というように切り離して客体化し、実験観察の対象として見たことは決してなかったのである。山や海、大地の神々に収穫を願い、収穫を感謝して長の年月を共に生きてきた訳である。神の存在を疑ってみたこともなく、「神と倶にある」という信念と信仰は至極当然のこととして、それを特に考えた事もなく、且つ何の不思議でもなかった。だから、天上に照り輝く太陽も、行く雲も、流るヽ水も、出る月もそれらは皆、神そのものであり、神の姿なのであった。

つづく

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