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正邪の別

世間には「自分があの神社へお参りに行ったとき、古代のこれこれこんな服装をした素晴らしい女神が私をお迎えに出て来られた」とか、「衣冠束帯の尊い神さまが〝よく来た〟と出て来られた」とか「神様から○○をもらった」等と自慢げに言い触らすものがあるが、これらはすべて妖魅・邪霊の類であるからだまされてはならぬ。そのような者等をウッカリ信じ込みなどしようものなら、終いには身ぐるみ剥がされてしまうことにもなりかねないから、御用心・御用心。
正神界の神霊は「隠り身」であり、例え御眷属神といえども姿・形を顕される事はないものである。

日の本の国は何事も神意を第一として古代から託宣によって動く民族だったからか、今日においても、誰かまことしやかにご託宣を述べる者がいると、たといその背後の霊物の正体が狸であろうと狐であろうとお構い無しに、何でもかんでも有難がって、直ぐに野心や欲心を持った人が寄り集り、瞬く間に一つの組織が出来上がっていくから、何とも身欲な盲信者たちにも困ったものである。
どこかの拝み屋さんに通っている内に何ものかが自分の耳元で囁き出したり、あるいは神社か何処かで何かの光りの玉が頭に当たってからというもの、なにやかやと、まことしやかに口走りだす者も巷にはあるが、これらは大抵低い霊の憑依なのであるから、うかつにこうした者等の言うことを信じてはならないのである。こうしたものに限って、親からもらった名前を直ぐに替え、「聖」とか「龍」とか「神」とか「佛」とか「徳」とか「光」とか、果ては「イエス」とか「モーゼ」とか「仏陀」とか「卑弥呼」とかいった文字を好んで命名して寄って来る取り巻きの信者たち?に呼ばせるようになるものである。またその「生まれ変わりだ」などととんでもないことを言い出し、己れのくだらぬ阿呆面の写真まで拝ませようとするに至る始末である。何と低級極まりないことか。いまだに目糞・鼻糞まみれの愚かな己れであることを忘れて、何を血迷ったのか、自分を一体どんなえらい神さま・佛様になったと思い込んでしまっているのだろうか。このように、思わず吹き出したくなるほど幼稚な頭の弱い可笑な者等がこの世には非常に多いのである。
これは霊学者の初歩的常識であるが、何か光りを見た…などと言っても、「光り」にも「正神の光り」もあれば「魔界の光り」もあるのであり、「光り」にも正邪の別、また夫々に無数のきざはし(階梯)があるということを知らねばならない。正・邪の区別さえ知らぬ、何の霊学的知識もない者らが風呂場で転倒したり、階段から落ちた者がその途端に「輝く光りを見た」とか、或いは「パソコンを打っていたら何かの霊が感応してきた」などといっては、「自分には何か特別の使命がある」などととんでもない勘違いをしている者が巷にはよく居るが、これ等は大抵低級な憑霊によるものであり、しかも殆どが邪神界のものなのである。こうした事情は「気」というものの世界に関してもまた同様である。
「人は皆、神仏の前では平等」である、とシッカリ信じておればよいのであり、決して変なものにだまされ、引っかかって身も心もボロボロにならぬように、くれぐれも気を付けて頂きたい。

正しい霊学を修めたことのない者は、憑ってきた霊物の正体を見抜けず、低い霊物の憑依を「真の神懸かり」であると勘違いし、まことしやかに語るお告げや自動書記などを恥じも恐れもなく直ちに出版したり…、といった愚行を平気で仕出かし、世を穢し汚して行くものであり、誠に嘆かわしき限りである。正神界の高き神霊は、大抵は謎をもってお示しになるものであり、神律を無視して人に近寄ったり、ペラペラと喋るが如きことは決してないものと知っておかれたい。野狐の類に騙されてはならないのである。

(『日本神道の秘儀より』掲載)

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