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神と人のあり方   10

世の障り 人の嘆きは みな共に
みたまと人の 汚れより来る (319)

世の中には、自分はこれまで正しく生きてきたつもりだし、出来る限りの人助けもしてきた。
それなのにどうしてこんな泣く目に遭うのか…と思う方もおられよう。つまり第二には、先に牟田氏の例でも見たように、自己ならずとも親・先祖や一家の積んできた業・因縁というものがあることを知らねばならないということである。
深い浅いの差はあろうとも、何処の家にも業・因縁というものがあり、そのために私たちは強いて言えば、「此の世に泣きに来た」とも言えるのである。つまり、己れに分らずとも、一家が不運に見舞われるのは、これ「一朝一タの故にあらず」であり、全て起こることには意味があり、その深く由来するところがあるのである。それを何故であるのか、と己が浅い人間智恵で考えてみたところで到底分ろう筈がない。まして、その業・因縁を自分で断ち切るなど、思いも及ばぬことなのである。

氏子等の 因を見破る その智恵は
神のみ智恵の 外になきなり (571)

氏子等の 力で因を 切る事は
思い及ばぬ 六ケ敷きこと (564)

こうした事柄は、常々道を求め、あるいは神仏への信仰を持つ人には、比較的容易に理解し易いことなのであるが、日頃「自分がすべて」で、己れのごく浅い知識のみを金科玉条の如くに頼りとして生きてきた人には、なかなかに納得し難いことと思われる。そういう人は如何に「知識」を積み上げてみたところで、如何に「理性」を掘り下げてみたところで、己はチリひとつ生み出し、創造することもできない全く非力な存在であるということにまず気付くべきである。「考える」とは実は「考えないこと」(神迎える・神還へる)なのである。世間で言うところの「考える」とは、言葉を使う能力(即ち理性)であり、又、「理性」とは「あくまでも言葉を使う能力」を言うことであって、それは決して「真理」ではない。「認識する」とは「言葉で序列化すること」であって、これは西洋流の認識の仕方なのであるが、ことばで序列化できればもうそれでわたし達は何でもスッカリ分かったかの如くに安心してしまうのであるが、実に愚かと言うべきである。霊的真実というものは、己れの知識を如何に数多く積み上げてみたところで、理性を如何に磨き上げたところで、到底何一つ分るものではない。いざと言うときに、己れがそれこそチリ一つも動かし得ない、如何に無知で非力な存在であるか、ということが心底から理解出来てから後の課題なのである。
神にしか本当の理由(業・因縁の元)は分らぬものであり、またそれを断ち切る事もできない。だからこそ、人々の苦悩の原由であるこの業・因縁を断ち切るために神が世に出るのである。
業・因縁を持ったままでは、人がいつまでも苦しみの淵から救われることは無いからである。

因を切る 之こそ神の 大仕事
神が世に出る 又此の為じゃ (563)

業を消す 業を祓うと 一口に
言ふは易けれ 事は神業   (764)

初心者に、はじめからこうした業・因縁などといった、おどろおどろしいことを説くと、怖がって尻込みされる御仁もおられることと思われるが、しかし私たちはこれを決して恐れてはならない。誰知らずとも、生みの親以上に親身になって、私たちが悲しみ苦しまぬようにと日夜心を砕いておられる神々が現に見守って居られるからである。
であるから、私たちはこれまでの傲慢な己が心を改め、生き方を改めて、素直に神の道を求め、「人は何ゆえに此の世に生まれ出たのか」「人は如何に生きるべきか」ということをよくよく神に問い、神習って、ひたすら神にすがる心を起して、どこまでも神の教えを一心に守り抜く…という心掛けが大切である。

因縁を 神に任せて 願へかし
神は慈悲なり 神は智恵なり (188)

氏子等よ 如何なる業が あるとても
夢恐るなよ 神に任せよ  (256)

「信仰などするもしないも勝手」と人はよく言うが、本当は私たちは、神・仏の守りなしには一日たりとも生きてはいけない存在である、ということを身にしみて知るべきではないだろうか。人は誰でも自分の意志や自力で此の世に生まれ出たわけでもなく、且つ「自分の体」と言いつつ、自分の意識や浅はかな智恵でもって、この己れの心臓・腎臓・肝臓等の何一つ自由に動かせもしないくせに、神があるとか無いとか、育児や結婚や、事業やこの人生が自分の思い通りにでもなると考えているのだから、実に愚かというか、勘違いも甚だしいと言わねばならぬ。あなたは一体誰の御蔭で自分の名前がそうして言えるようになったのか、誰の御蔭で新聞が読めるようになったというのか、あなたが赤ん坊の時のおしめは一体誰が取り替えてくれたというのか?。神佛はもとより親・先祖や社会の御蔭、人の恩というものを忘れてしまうような恥知らずは、決して人とは言わぬのである。

因縁を 断ち切るわざは 神のみぞ
己がなすなど 慢心なせぞ (187)

私たちはあまりにも愚かな人間であるために、業(ごう)・因縁を消すと誓いながらも、逆に日々に罪穢れを生じさせ、業・因縁を減らすどころか、ますますその上塗りをしている…というのが、偽らざる現状ではないだろうか。

日々に積む 業はいくたと 数知れぬ
日夜の行で 必ず洗え (2079)

夜に昼に 重なる業を 夜に昼に
神に祈りて 神に預けよ    (1267)

宵越しの 業は要らぬぞ その夜に
さらりと神に 渡すことなり  (1268)

斯くすれば 不幸・災難 病ひなど
現世の業は 何も残らず    (1269)

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