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《業・因縁を断ち切る道》

身の病ひ 不幸災難 ある氏子
    これ皆心 浄まらぬため  (二五四)

 ○ 身の病ひ 家の病ひは 皆共に
    積る悪業 それが基ぢや

 誰でも「いつも幸せでありたい」と願わぬものはないであろう。病気はしたくないし、いつまでも健康でありたい。贅沢は望まなくとも、お金の苦労だけはしたくない、人生を思い通りに生きて行きたいと誰もが思う。しかし、人生は思わぬところに落とし穴が用意されているかのように、幸福の絶頂期に奈落が待っており、大抵はさあこれから…というときにどうして私だけが、どうして私の夫が妻が、一体どうして可愛い吾が子が、家族が何故…というような不慮の病いや事故、災難等、一身上の大事に見舞われ、塗炭の嘆き苦しみの淵瀬に立たされ懊悩することが起こる。
 自分の人生にこんなことがある訳がない、あっていい訳がない…、と己が身に降り掛かり起こってしまったことが、とても信じられない。こんな時、誰もが何が何だか訳が分らない…といった錯乱状態に陥ってしまう。どんな無信心者でも「ああ、神様!」と天を仰ぎたくなる瞬間である。「神も仏もあるものか!」と神仏をさえ呪いたくなるものであるが、これは決して神仏の所為ではなく、全て、自分自身あるいは親・先祖からの過去に蒔いた種を刈り取る時期が巡って来ただけなのである。

 ○ 因縁と 言ふは 霊魂と人の事
    神には因も 縁も果もなし

 斯様な時、日頃は吾れほどのものは無いかのように大口をたたき、自慢げに羽振りのよい暮らしをしてきたさすがの自信家たちも、その揺るぎない筈の自己の信念が揺らぎ、誰にも相対化されない筈の自己の築いてきた堅固な人生観・世界観が目の前でガラガラと脆くも崩れ落ちる瞬間を体験し、へなへなとその場に倒れ込むことになる。自信家ほど、その経済的な足場などを取り払われたら甚だ脆いものである。普段は社会的地位・立場やお金や財産がその人にものを言わせていただけなのだから。
 また、「あとよくもって三ケ月の命です」などと、医者に自分や家族の不治の病いを宣告されて、「そうか」とその事実を淡々と受け入れ、ピリとも動じない者というのは少ないであろう。
 そうして初めて、健康であったこれまでの日々がどんなに有難かったか、「何事もない日々」というものがどれほど有難いものであったかにはじめて気付き、たった一人暗い部屋で肩を震わせ泣くことになるのである。
 ああ、あの時「タバコはやめて」「それ以上、お酒は飲まないで」「体をどうか大事にして」「車には十分気をつけて」と言ってくれた、やさしい家族や友の言葉を一つ一つ思い出しながら…。事が起きてからでは、「どうして素直に聞かなかったのか」と後悔しても、時すでに遅しである。私たちは己れが積んできた罪や業・因縁というものにこうして泣かされ懊悩するのである。

 ○ かくり世の さまも見せたや 氏子等よ 
    めぐりめぐれる 罪のありさま

 このような時、まず第一に反省すべきは、自分自身の此の世で犯した罪・穢れであろう。他人をだましたり陥れたり、苦しめたりしていて、その人の人生が良くなろう筈がない、とは誰しも思うであろう。
 人を裏切り苦しめたなら、必ず今度は、自分が何処かで他人から苦しめられることになるのであるから。己れのしでかした罪は決して消えないのである。かつまた、人を助けたその功徳もまた…。
 次の御神歌は牟田耕蔵氏に油断をさせぬためなのであろうが、牟田家の宿世の業の大きさを神霊が教えられたものである。神々はこうして牟田氏に人助けや霊魂救済をさせるための修行をさせ、そうして神の力を付与して、多くの悩める人や苦しむ霊魂を救い上げさせ、徳を積ませ、それによって、牟田氏はじめ、一家の深い業・因縁を消し去ろうと神計っておられるのである。そうした有難き神の深いお慈悲が手に取るように分って来ると、ただただ頭をたれるのみである。

 ○ 此の家なる 宿世の業は 大きいぞ
    夢おろそかに なすな危し

 「積善の家には必ず余慶有り。積不善の家には必ず余殃有り」とは『易経』坤・文言伝の教えであるが、己れのした事は良かれ悪しかれ、すべて己れに報うて来ることを知らねばならない。このように身に起こる「一切は自業自得」なのであるから、人はどうしても真人間に立ち返り、心と身と行いとを正さねばならぬ、ということになる。そして、出来る限りでよいから、人を助け、世のためになる事をしてお徳というものを積ませて頂く人生を歩ませて頂かなければならない、と思うのである。

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