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神と人のあり方  8     修行    ─業・因縁を断ち切る道─

○ 修行こそ この現し世の務めなり
    他の業とては 何もなきなり
 
 「真の修行とは何ぞ」と己れに静かに問えば、それは一度「行」に入ったならば、「二度と再び生きてこの娑婆には戻らず」という非常に厳しい決死のものであると思うのである。
 たとえば本来の仏教における「出家」とは、今日のように、家や名利や豊かさや妻を求めての仏道入門ではなしに、釈迦牟尼世尊が親を捨て妻子を捨て家を捨て名利を捨て、世俗の一切を捨て去って、悲壮の決意で「悟り」の道を求めて歩まれたように、まことに厳しいものがあった。近いものと言えば、今日ではさしずめ「千日回峰行」などがそれに当たるであろうか。
 また、柔道であれ剣道であれ、いわゆる世にさまざまに在る種々の、また諸流派の「武道」というものは、それらは単に肉体の鍛錬や技の上達を目指すというだけでなく、「道」とあるからには、日々の鍛錬は、肉体的にも精神的にも、その究極をめざしての厳しい修業であるに相違なく、それは武道に限らず、伝統芸能や伝統工芸等の世界であっても然りであろう。
 つまり、広義に解釈すれば、そこに目標とする高い「志」ある限りは、人の為す事はすべて「修業」(行)でないものはない、ということになる。そして、それは一生かけても終わりのない、果てしの無い旅のようなもので、やればやるほど限りのないものであるといってよい。
 修行者が「これでよし」と思った途端に、すべてはそれでおしまいになるからだ。そして大抵はそれから堕落が始まるものである。
 この項でこれから見ていく修行というものは、一口に言えば「身魂磨き」(霊性の向上)を中心とした修行、あるいは霊魂の完成・成就をめざしての神道的・霊的修行ということになるであろう。
 さて、私たちは此の世に一体何をしに生まれてきたのだろうか。美味しい物を食べるためなのか、預金通帳のゼロの数を増やすためなのか、立派な家を建てて住むためなのか、世界旅行をするためなのか、カラオケで歌い騒ぐためなのか、ただ楽しく笑って過ごせればそれでいい…といった程度のことなのか、人それぞれというところであろう。これらはすべて、いずれはお返ししなければならない此の肉体に係わる《欲望の充足》のためでしかない。
 肉体は仮のものであり、「霊魂こそが己が本体である」と悟れば、その本体であるたましひの充足を計るべく霊魂への栄養・食べ物が必要となってくる。「教え」という《たましひ》の栄養が…。そのことに気が付いておられるからこそ、読者は本書を手にしておられるのである。この霊魂を磨く道については、次の(二)「心の浄化」や第三章の「生きることの意味」をも併せて読んで頂くとして、ここでは神霊が教えられるところの「修行」について、また主目的の「業・因縁を如何にして消すか」について見ていくことにしよう。

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